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柿本人麻呂:泣血哀慟の歌(万葉集を読む)


万葉集巻二挽歌の部に、「柿本朝臣人麻呂妻死し後泣血哀慟して作る歌二首」が収められている。その最初の歌は、人麻呂が若い頃に、通い妻として通った女人の死を悼んだものとされている。この歌には、愛する人を失った悲しみが、飾り気なく歌われており、その悲しみの情は、21世紀に生きる我々日本人にも、ひしひしと伝わってくる。

彼が宮廷歌人として作った儀礼的挽歌とは、まったく異なった感情の世界が、そこにはある。

まず、歌そのものを読んでいただきたい。一人の男が一人の女に寄せる、切なくも濃密な愛を読み取っていただけると思う。

―柿本朝臣人麿が、妻の死し後、泣血哀慟してよめる歌二首、また短歌
  天飛ぶや 輕の路は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば
  ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み
  数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと
  大船の 思ひ頼みて かぎろひの 磐垣淵(いはかきふち)の
  こもりのみ 恋ひつつあるに
  渡る日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲隠るごと
  沖つ藻の 靡きし妹は もみち葉の 過ぎて去(い)にしと
  たまづさの 使の言へば 梓弓 音のみ聞きて
  言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば
  吾が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心もありやと
  我妹子が 止まず出で見し 輕の市に 吾が立ち聞けば
  玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず
  玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てし行かねば
  すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
短歌二首
  秋山の黄葉を茂み惑はせる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも
  もちみ葉の散りぬるなべに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ

「輕の路は 我妹子が 里にしあれば」とあるところから、この女人は大和の軽の里に住んでいたのであろう。その女人を、人麻呂は人目を偲んで通っていた。「ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ」とあるところから、そのように推察されるのである。

何故、人麻呂が人目を忍ばなければならなかったか、それはわからない。この当時の結婚の形態は、通い婚が一般的であった。男は女と同居することなく、女の家に通うのである。男の中には複数の女のもとに通う者もあっただろう。逆に、複数の男に通われた女もあったことだろう。

人麻呂がこの女のもとに通うのに人目を偲ばなければならなかったのは、この結婚が祝福されるものではなかったことを物語っているのかもしれない。もしかしたら、女には別に、正式の夫がいたのかもしれない。

そんな推測は脇へおいて、この歌を虚心に詠むと、一人の男としての人麻呂が、最愛の女を失った悲しみが、ひしひしと伝わってくる。人麻呂は、女の面影を求めて、かつて女が足を運んだ軽の市を訪ねる。「吾が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心もありやと 我妹子が 止まず出で見し 輕の市に 吾が立ち聞けば」と、人麻呂は、ただただ亡き人の面影を求めてさすらい歩くのである。

誰しも思い当たることであろう。失った者の面影を求めて、その人の匂いのする所をさ迷い歩くのは、我々現代人も同じである。

だが、そこには亡き人の面影を呼び覚ますものはなかった。かくて人麻呂は、「玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる」と絶叫する。

女に先立たれた一人の男としての人麻呂の、痛ましいような、情けないような、何とも不思議な魂の叫びが伝わってくるところだ。

この女人については、柿本人麻呂歌集にある相聞歌などをもとに、人麻呂との関係を論考した研究がなされてきた。北山茂夫は、それらをもとに、この女人は宮中に奉仕する女官であったと類推している。

持統女帝が伊勢の国に行幸したときの歌を人麻呂が作っている。このとき、人麻呂は都にとどまって、行幸に従事しなかったのであるが、はるか伊勢を思いやって次のように詠んでいる。

―伊勢国に幸せる時、京にとどまれる柿本朝臣人麻呂の作る歌
  嗚呼児(あご)の浦に船乗りすらむ乙女らが珠裳の裾に潮満つらむか
  釵(くしろ)纏(ま)く答志(たふし)の崎に今もかも大宮人の玉藻苅るらむ
  潮騒に伊良虞の島辺(へ)榜ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻(しまみ)を

この歌に歌われている乙女とは、軽の女であったらしいのである。人麻呂は、はるかに隔てた地にあって、女の姿を思い浮かべつ、このような歌を詠んだ。彼が女を失った時の悲しみは、このような親密な情愛の裏返しであったのだろう。

人麻呂は更に後年、女を偲んで次のような歌をも作っている。

―紀伊国にてよめる歌四首
  もみち葉の過ぎにし子らと携はり遊びし磯を見れば悲しも
  潮気立つ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し
  古に妹と吾(あ)が見しぬば玉の黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも
  玉津島磯の浦廻の真砂(まなご)にもにほひて行かな妹が触(ふ)りけむ

恐らく人麻呂は、かつて軽の女と紀伊国に遊んだことがあったのだろう。その時の思い出が目の前に甦り、人麻呂は歌わずにはいられなくなった。「遊びし磯を見れば悲しも」といい、「過ぎにし妹が形見とぞ来し」といい、「にほひて行かな妹が触りけむ」といい、女への連綿たる情愛がほとばしっている






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