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柿本人麻呂:覊旅の歌(万葉集を読む)


万葉集巻三雑歌の部に、柿本人麻呂の覊旅の歌八首が並べて掲げられている。人麻呂が難波から西に向かう旅の途中に歌ったものもあり、逆に西から京へ帰る途中のものもある。いづれも瀬戸内海をゆく船旅の途上詠まれたものと思われる。

柿本人麻呂は、持統天皇の宮廷に仕える歌人であったが、時には官人として、地方に赴いたこともあった。その旅の途中に歌った歌が、ここにまとめて掲げられたのであろう。

―柿本朝臣人麻呂が覊旅の歌八首
  御津の崎波を恐(かしこ)み隠江(こもりえ)の船寄せかねつ野島の崎に
  玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎ夏草の野島の崎に舟近づきぬ
  淡路の野島の崎の浜風に妹が結べる紐吹き返す
  荒布(あらたへ)の藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行く吾を
  稲日野(いなびぬ)も行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ
  燭火(ともしび)の明石大門(おほと)に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず
  天ざかる夷の長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ
  飼飯(けひ)の海の庭よくあらし苅薦の乱れ出づ見ゆ海人の釣船

前の三首に見える野島とは、淡路の一村らしい。第二首はその野島に、玉藻刈る敏馬を過ぎて船が近づいたと歌っている。敏馬は、斉藤茂吉によれば、神戸の灘あたりらしいから、船は瀬戸内の海を横切って、淡路のさる崎に近づいたのだろう。単純ななかにも、素直な感情が表現されている。

第三首は、その野島の浜風が、妹が結んでくれた紐を吹き返すことよと歌っている。この妹が誰であるか、我々にはわからない。旅の途中のさりげない出来事に事寄せて、愛する人を歌った相聞の秀歌であるといえよう。

第四首は、官人人麻呂の自負が伺われる作品である。こうして藤江の浦で鱸を釣ってはいるが、自分はこのあたりの海人などではなく、女帝に仕えるれっきとした官人なのだと、誇らしげに歌う様子が伝わってくる歌である。

第六首は、船が明石と淡路の海峡に差し掛かったときの歌であろう。ここまで来ると、もはや家のある大和の国を見ることもない、ただ先を目指して進むのみだという、旅人の複雑な気持ちを歌ったのだと思える。

第五、第七の二つの歌は逆に、西のほうから京へ帰る途中の歌であろう。第五首では長い船旅をへて心待ちにしていた加古の島が見えた喜びを歌い、第七首は、明石の門より大和が見える喜びを歌っている。いづれも、技巧をこらさぬ単純な歌であるが、旅の思いが率直に歌われている。

第八首は、船旅の途中目にした、猟師たちの生業の様子を歌ったものである。海上に苅薦が乱れ、その合間に釣り船の浮かぶさまが見える。猟師たちの様子をおおらかにとらえた、すぐれた叙景歌になっている。

万葉集巻三にはまた、人麻呂が筑紫の国に下る時の歌が載せられている。

―柿本朝臣人麻呂が筑紫国に下れる時、海路(うみつぢ)にてよめる歌二首
  名ぐはしき印南(いなみ)の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
  大王の遠の朝廷(みかど)とあり通ふ島門(しまと)を見れば神代し思ほゆ

はじめの歌は、海道はるかに来て故郷が見えなくなったさまを歌い、二首目は、筑紫に近づいたことを歌う。筑紫の島門を見れば「神代し思ほゆ」とは、神話を踏まえた発想であろう。人麻呂には、神話的なものにたいする特別の感情があって、折に触れて歌の中にほとばしり出てくる。おそらくそれは、持統天皇に使えるものとしての、特別の宮人意識がもたらしたものなのだろう。

人麻呂の挽歌に、讃岐国狭岑島において石中の死人をみて詠んだという一遍がある。人麻呂のヒューマンな感情が良く表れており、ある意味では、もっとも人麻呂らしい歌である。

―讃岐国狭岑島(さみねのしま)にて石中(いそへ)の死人を視て、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌
  玉藻よし 讃岐の国は
  国柄(くにから)か 見れども飽かぬ 神柄(かみから)か ここだ貴き
  天地 日月とともに 満(た)り行かむ 神の御面(みおも)と
  云ひ継げる 那珂の港ゆ 船浮けて 吾(あ)が榜ぎ来れば
  時つ風 雲居に吹くに 沖見れば しき波立ち
  辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏み
  行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど
  名ぐはし 狭岑の島の 荒磯廻(ありそみ)に 廬りて見れば
  波の音(と)の 繁き浜辺(はまへ)を 敷布の 枕になして
  荒床(あらとこ)に 転(ころ)臥す君が 家知らば 行きても告げむ
  妻知らば 来も問はましを 玉ほこの 道だに知らず
  欝悒(おほほ)しく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは
反歌二首
  妻もあらば摘みて食(た)げまし狭岑山野の上(へ)のうはぎ過ぎにけらずや
  沖つ波来寄る荒礒を敷布の枕とまきて寝(な)せる君かも

この歌は、作中に「那珂の港ゆ 船浮けて 吾が榜ぎ来れば」とあるように、舟に乗って大和に帰る途中に詠んだものと思われる。主題は、名も知らぬ庶民の死であるが、人麻呂はそこに、相聞のテーマを持ち込むことで、一人の庶民の死を普遍的なものへと高めている。

「家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを」とは、男に同情するあまりに、胸をついて出た言葉であろう。この時代、貴族が一庶民のために挽歌を作ることなど例がなかった。人麻呂が、あえてそれを作ったのは、人麻呂のヒューマンな感情によるものとも思われる一方、この男とその妻との関係を己の身に引き比べて、夫婦の情愛を歌いたかったからではないか。

反歌第一首の意を、茂吉は次のように解釈している。「もし妻が一緒なら、野のほとりのうはぎ(よめ菜)を摘んで食べさせようものを、あわれにもただ一人こうして死んでいる。そして野のうはぎはもう季節を過ぎてしまっているではないか」

人麻呂が、同じように庶民の死体をみて作った歌がほかにもあり、巻三挽歌の部に収められている。

―柿本朝臣人麻呂が香具山にて屍を見て悲慟(かなし)みよめる歌一首
  草枕旅の宿りに誰が夫(つま)か国忘れたる家待たなくに

ここに歌われた屍について、北山茂夫は、宮殿造営のために借り出された役民の成れの果てか、あるいは税を運んできた農民の末路かもしれないといっている。当時このような野垂れ死には珍しくはなかったのだろう。普通なら目をそむけてしまうところを、人麻呂は己のことの如くに取り上げている。

先の長歌とあわせて、人麻呂のヒューマンな側面が良く現れた秀歌といってよい。






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