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山上憶良:沈痾自哀の文(万葉集を読む)


万葉集巻五に、山上憶良の作「沈痾自哀の文」なるものが載せられている。題名の如く老病を嘆き、自らを哀れむ思いを、漢文調の文章でつづったものである。作中七十有四とあるから、死の直前に書かれたものであろう。憶良の人生の総決算ともいえるものだ。

文章は生硬で読みづらいのであるが、ここに全文を掲載しておこう。

―竊(ひそ)かに以(おもひみ)るに、朝夕山野に佃食する者すら、猶災害無くして世を度ることを得 謂ふは、常に弓箭を執りて六斎を避けず、値ふところの禽獣、大小を論はず、孕めるとまた孕まざると、並皆(みな)殺し食らふ。此を以て業と為す者をいへり。昼夜河海に釣漁する者すら、尚慶福有りて俗を経ることを全くす 謂ふは、漁夫潜女各勤むるところ有り。男は手に竹竿を把りて、能く波浪の上に釣り、女は腰に鑿と籠を帯び、潜きて深潭の底に採る者をいへり。

―况乎(まして)我胎生より今日に至るまで、自ら修善の志有り、曽て作悪の心無し 謂ふは、諸悪莫作、諸善奉行の教へを聞くことをいへり。所以に三宝を礼拝し、日として勤まざるは無く 毎日誦経、発露、懺悔せり、百神を敬重し、夜として欠けたること鮮(な)し 謂ふは、天地諸神等を敬拝するをいへり。

―嗟乎(ああ)恥(やさ)しきかも、我何(いか)なる罪を犯してか此の重疾に遭へる 謂ふは、未だ過去に造りし罪か、若しは是現前に犯せる過なるかを知らず、罪過を犯すこと無くは、何ぞ此の病を獲むやといへり。初めて痾ひに沈みしより已来(このかた)、年月稍多し 謂ふは、十余年を経たるをいへり。是の時年七十有四、鬢髪斑白にして、筋力汪羸(わうるい)。但に年老いるのみにあらず、復た斯の病を加へたり。諺に曰く、「痛き瘡は塩を灌ぎ、短き材は端を截る」といふは、此の謂なり。四支動かず、百節皆疼み、身体太だ重きこと、猶鈞石を負へるがごとし 二十四銖を一両と為し、十六両を一斤を為し、卅斤を一鈞と為し、四鈞を一石と為す、合せて一百廿斤なり。布を懸けて立たむとすれば、翼折れたる鳥の如く、杖に倚りて歩まむとすれば、跛足(あしなへ)の驢(うさぎうま)に比(たぐ)ふ。

―吾、身已く俗を穿ち、心も亦塵に累(つな)がるるを以て、禍の伏す所、祟の隠るる所を知らむと欲ひ、亀卜の門、巫祝の室に、徃きて問はずといふこと無し。若しは実なれ、若しは妄(いつはり)なれ、其の教ふる所に隋ひ、幣帛を奉り、祈祷せずといふこと無し。然れども弥よ苦を増す有り、曽て減差(い)ゆること無し。

―吾聞く、前代に多く良医有りて、蒼生の病患を救療す。楡柎、扁鵲、華他、秦の和、緩、葛稚川、陶隠居、張仲景等のごときに至りては、皆是世に在りし良医にして、除愈せずといふこと無しと 扁鵲、姓は秦、字は越人、勃海郡の人なり。胸を割きて心腸を採りて之を置き、投(い)るるに神薬を以てすれば、即ち寤めて平の如し。華他、字は元化、沛国のセフの人なり。若し病結積(むすぼ)れ沈重(おも)れる者有らば、内に在る者は腸を刳きて病を取る。縫ひ復して膏を摩れば、四五日にして差(い)ゆ。件の医(くすし)を追ひ望むとも、敢へて及ぶ所にあらじ。若し聖医神薬に逢はば、仰ぎ願はくは五蔵を割刳(さ)きて百病を抄採(さぐ)り、尋ねて膏盲の奥処(あうしよ)に達(いた)り 盲は鬲なり。心の下を膏とす。之を改むること可(よ)からず。之に達れども及ばず、薬至らず、二竪の逃れ匿りたるを顕さむと欲(す) 謂ふは、晉の景公疾み、秦の医(くすし)緩視て還りしは、鬼の為に殺さると謂ふべしといへり。命根既く尽き、其の天年を終りてすら、なほ哀しと為す 聖人賢者一切含霊、誰か此の道を免れむ。何ぞ况んや、生録未だ半ばならずして、鬼に枉殺せられ、顏色壮年にして、病に横困せらる者をや。世に在るの大患、孰れか此より甚だしからむ

―志恠記に云く、「廣平の前の大守、北海の徐玄方の女、年十八歳にして死ぬ。其の霊、馮馬子に謂ひて曰く、『我が生録を案ふるに、寿(よはひ)八十余歳なるべし。今妖鬼の為に枉殺されて、已に四年を経たり』と。此に馮馬子に遇ひて、乃ち更活(よみがへ)ることを得たり」といふは是なり。内教に云く、「瞻浮州の人は寿百二十歳なり」と。謹みて此の数を案ふるに、必(うたがた)も此を過ぐること得ずといふに非ず。故に寿延経に云はく、「比丘有り、名を難逹と曰ふ。命終の時に臨み、仏に詣でて寿を請ひ、則ち十八年を延べたり」といふ。但善を為す者のみ、天地と相畢(を)はる。其の寿夭は、業報の招く所にして、其の脩短に隋ひて半ばと為る。未だ斯の算に盈たずしてすみやかに死去す。故に未だ半ばならずと曰ふ。

―任徴君曰く、「病は口より入る。故に君子は其の飲食を節(つつし)む」と。斯に由りて言はば、人の疾病に遇ふは必も妖鬼にあらず。それ医方諸家の広説、飲食禁忌の厚訓、知ること易く行ふこと難き鈍情の、三つは目に盈ち耳に満つこと由来久し。抱朴子に曰く、「人は但其の当(まさ)に死なむ日を知らず、故に憂へざるのみ。若し誠に、羽カク期を延ぶること得べき者を知らば、必ず之を為さむ」と。此を以て観れば、乃ち知りぬ、我が病は盖しこれ飲食の招く所にして、自ら治むること能はぬものか。

―帛公略説に曰く、「伏して思ひ自ら励むに、斯の長生を以てす。生は貪るべし、死は畏(おそ)るべし」と。天地の大徳を生と曰ふ。故に死人は生鼠に及かず。王侯為りと雖も、一日気を絶たば、金を積むこと山の如くありとも、誰か富と為(せ)む。威勢海の如くありとも、誰か貴しと為む。遊仙窟に曰く、「九泉下の人、一銭にだに直(あたひ)せず」と。孔子の曰く、「天に受けて、変易すべからぬものは形なり、命に受けて請益すべからぬものは寿(いのち)なり」と 鬼谷先生の相人書に見ゆ。故に生の極りて貴く、命の至りて重きことを知る。言はむと欲へば言窮まる。何を以てか言はむ。慮(おもひはか)らむと欲へば慮(おもひはか)り絶ゆ、何に由(よ)りてか慮らむ。惟以(おもひ)みれば、人賢愚と無く、世古今と無く、咸(ことごと)く悉(みな)嗟歎(なげ)く。歳月競ひ流れ、昼夜息(いこ)はず

―曾子曰く、「往きて反らぬものは年なり」と。宣尼の川に臨む歎きも亦是なり。老疾相催し、朝夕侵し動(さは)ぐ。一代の歓楽、未だ席前に尽きずして 魏文の時賢を惜しむ詩に曰く、「未だ西花の夜を尽さず、劇(たちまち)に北芒の塵となる」と。千年の愁苦、更に坐後を継ぐ 古詩に云く、「人生百に満たず、何ぞ千年の憂を懐かむ」。若夫(それ)群生品類、皆尽くること有る身を以て、並(とも)に窮り無き命を求めずといふこと莫し。所以に道人方士の自ら丹経を負ひ、名山に入りて合薬する者は、性を養ひ神を怡(よろこ)び、以て長生を求む。抱朴子に曰く、「神農云く、『百病愈えずは、安(いかに)ぞ長生を得む』」と。帛公又曰く、「生は好き物なり。死は悪しき物なり」と。若し不幸にして長生を得ずは、猶生涯病患無き者を以て福大と為さむか。

―今吾病を為し悩を見、臥坐を得ず。東に向かひ西に向かひ、為す所知ること莫し。福無きこと至りて甚しき、すべて我に集まる。人願へば天従ふ。如し実有らば、仰ぎ願はくは、頓(たちまち)に此の病を除き、頼(さきはひ)に平の如くあるを得む。鼠を以て喩とす、豈に愧ぢざらむや 已に上に見ゆ。

この文章には、死に臨んでなお生への執着を捨てきれぬ者の、あがきに似た願いがある。憶良は先人の言葉をひき、「生は貪るべし、死は畏るべし」という。また、「死人は生鼠に及かず」といって、死ぬることの空しさ、恐ろしさを語る。

この執着のエネルギーはどこからきているのであろうか。筆者は、古代から現代まで延々とつながる日本的心性の中に、かくも激しい生への執着を、ほかに見たことがない。

憶良の生への執着は、裏面では、名を上げることへのこだわりとなって疼いてもいた。憶良は中年にして遣唐使に加えられ、老年近くにして東宮に仕えることが出来た。これをバネに、朝廷において出世することを希ったようでもあるが、一地方国守として終わった。人麻呂や赤人に比すれば高い地位といえるが、憶良の胸のうちでは、それでも満足できなかったようだ。

そんな無念を、憶良は次のような短歌のなかで吐露している。

―山上臣憶良が沈痾(やみこやれ)る時の歌一首
  士(をとこ)やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして(978)
右ノ一首ハ、山上憶良臣ガ沈痾ル時、藤原朝臣八束、河邊朝臣東人ヲシテ、疾メル状ヲ問ハシム。是ニ憶良臣、報フル語已ニ畢リ、須ク有リテ涕ヲ拭ヒ、悲シミ嘆キテ此ノ歌ヲ口吟(ウタ)ヒキ。

この歌を読むと、筆者は杜甫の五言律詩「旅夜書懷」の一節を思い浮かべる。

  名豈文章著   名は豈に文章もて著はれんや
  官因老病休   官は老病に因りて休む
  飄飄何所似   飄飄として何の似る所ぞ
  天地一沙鴎   天地の一沙鴎

杜甫は、憶良より後の時代の、しかも唐に生きた詩人であったが、官僚として名を上げることへのこだわりが、憶良同様に強かった。その杜甫にとって、詩人としての名声は丈夫としての名声には及ばなかった。「名は豈に文章もて著はれんや」とは、その実直な表現なのである。

しかし、杜甫もまた意に反して、官僚として名を著すことは出来なかった。そんな自分を、飄々として漂っているところは鴎のようだと自嘲する。

憶良もまた同じ思いだったに違いない。彼の死は、ついに続日本紀に取り上げられることがなかったのである。






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