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山上憶良:その生涯と貧窮問答歌


山上憶良は、人麻呂、赤人を中心に花開いた万葉の世界にあって、他の誰にも見られない独特の歌を歌い続けた。憶良は人麻呂のように儀礼的な歌を歌わず、赤人のように叙景的な歌をも歌わなかった。また、万葉人がそれぞれに心をこめた相聞の歌も歌わなかった。彼が歌ったのは、世の中の貧しい人たちの溜息であり、子を思う気持であり、老残の身の苦しさであった。

山上憶良の歌は、ほとんどすべてが、五十代半ば以降の老年になって書かれたものである。それも、六十六歳以後の、筑前国守時代に集中している。若い頃の作品もあるいはあったのかもしれないが、万葉集には残されていない。

山上憶良の名が歴史上に登場するのは、続日本紀大宝元年(701)年の条である。その年、文武天皇は久しぶりに遣唐使の派遣を決定した。憶良はその随員の末席に連なり、「無位山於億良」とその名を記されている。時に憶良四十一歳のことである。遣唐使は翌年日本をたち、慶雲元年(704)日本に復命した。

無名の憶良が何故遣唐使の一行に加えられたか、詳細はわからないが、恐らくは漢語などの学識を買われたのであろう。

在唐時代の億良の歌が万葉集巻一に載せられている。

ー山上憶良大唐にある時、本郷(くに)を億ひて作る歌
  去来(いざ)子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(63)

「大伴の御津の浜松」とは難波津の風景を歌った言葉である。遣唐使の一行はここから船を出して瀬戸内海を西に行き、玄界灘から中国大陸を目指したのであった。この望郷の歌を歌ったとき、山上憶良はすでに四十四歳になっていた。

帰国後、山上憶良は朝廷の下級官人としての地位を得たようである。そして霊亀二年(716)伯耆国守に任命された。憶良は立身出世を人一倍願っていたとされるので、晩年になって得たこの地位に満足しただろう。いづれにせよ、名もなきものの立場に立って、人間の苦しみを歌う彼の歌風は、この地方官時代の経験に根ざしている。

養老五年(721)前後に、憶良は都に呼び戻されて、東宮(後の聖武天皇)に近侍することとなった。彼は前途に更に明るい栄達の光を見たに違いない。だが、神亀二年(725)聖武天皇即位とともに職を解かれ、同三年(726)には、筑前国守に任命された。左遷ではなかっただろうが、朝廷での栄達を望む憶良にとっては、がっかりするものであったようだ。

筑前国守時代は、憶良の創作意欲がもっとも高まった時期であり、多くの優れた作品を残している。彼の代表作は大部分がこの時代のものなのである。大伴旅人が大宰府の師(長官)として赴任してきたのをきっかけに、憶良と旅人との間の交友が深まり、互いの創作意欲を刺激しあったのだと思われる。

山上憶良の代表作はいくつかあげられるが、ここではもっとも憶良らしい歌として、「貧窮問答の歌」を取り上げよう。万葉集巻五に載せられている。

ー貧窮問答の歌一首、また短歌
(甲)風雑(まじ)り 雨降る夜(よ)の 雨雑り 雪降る夜は
  すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ
  糟湯酒(かすゆさけ) うち啜(すす)ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに
  しかとあらぬ 髭掻き撫でて 吾(あれ)をおきて 人はあらじと
  誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさふすま) 引き被(かがふ)り
  布肩衣(ぬのかたきぬ) ありのことごと 着襲(そ)へども 寒き夜すらを
  我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ
  妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ 
  この時は いかにしつつか 汝が世は渡る

(乙)天地は 広しといへど 吾(あ)が為は 狭(さ)くやなりぬる
  日月は 明(あか)しといへど 吾(あ)が為は 照りやたまはぬ
  人皆か 吾(あ)のみやしかる わくらばに 人とはあるを
  人並に 吾(あれ)も作るを 綿も無き 布肩衣の
  海松(みる)のごと 乱(わわ)け垂(さが)れる かかふのみ 肩に打ち掛け
  伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて
  父母は 枕の方に 妻子どもは 足(あと)の方に
  囲み居て 憂へ吟(さまよ)ひ 竈には 火気(けぶり)吹き立てず
  甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて
  ぬえ鳥の のどよび居るに いとのきて 短き物を
  端切ると 云へるが如く 笞杖(しもと)執る 里長(さとをさ)が声は
  寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ 
  かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道(892)
短歌
  世間を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(893)
  富人の家の子どもの着る身なみ腐(くた)し捨つらむ絹綿らはも(900)
  荒布(あらたへ)の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべを無み
山上憶良頓首謹みて上る。(901)

長歌は、貧者が別の貧者に語りかけるという構成をとっている。まず、(甲)の歌において、貧者が己の身の貧しさを歌い、その問いかけに応える形で、もっと貧しい貧者が、己の悲惨さを(乙)に歌う。もとより、この貧者たちは、億良その人とは無縁の、名もなき庶民たちであった。彼らの困窮を見かねた憶良がフィクションとして作り上げた人物像なのであろう。

まず、(甲)の歌では、「風雑り 雨降る夜の 雨雑り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ」と、リアルな表現の中に、貧者の生活ぶりが歌われる。この貧者はそれでも、「吾をおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば」と、いっぱしの自尊心は持っている。それでも、寒さには勝てないので、「布肩衣 ありのことごと」を引きかぶってひたすらこらえている。そして、世の中には、こんな自分よりもっと貧しい人がいるのかと、別の貧者を思いやるのである。

(乙)の歌では、別の貧者のもっと悲惨な暮らしぶりが歌われる。この貧者は、「天地は 広しといへど 吾が為は 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 吾が為は 照りやたまはぬ」と、世の中が自分にとってはいかにつらく厳しいかについて歌い始める。そして、「人皆か 吾のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 吾も作るを」と、不平等に満ちた世の中の不条理について嘆く。その暮らしは、「直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ 竈には 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて」というほど、言語を絶した貧しさである。こんな貧しい自分たちにも、税を取り立てる役人どもが、容赦なく襲い掛かってくる。彼らは、「いとのきて 短き物を 端切ると 云へるが如く」粗末な家に踏み込んできて、「笞杖執る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばふ」のである。

この歌は、人民の塗炭の苦しみと、それに襲い掛かる役人の非情を描いた杜甫の詩「石壕吏」を思い出させる。杜甫の詩では、老人までをも兵役に取ろうとする役人が、翁を逃がした老女をさらっていくさまが描かれていたが、ここでは、役人が鞭を振り上げながら、貧しい者から何もかもを取り立てようとするさまが描かれている。

短歌三首も、それぞれに窮迫した感じがよく現れている。

この歌の制作年代については、諸説あるが、恐らくは筑前国守時代の終わりか、辞任後のことだろうと思われる。いづれにせよ七十歳を超えての作である。これを憶良は高官に向かって提出した。

憶良は人生の最晩年に、地方長官として人民の生活にじかに接し、その困窮振りに心を動かされたのであろう。そこに、我々現代の読者は山上憶良という人のヒューマンな人柄を感じ取る。ほかの万葉歌人には決してみられないところである。しかも、地方長官の立場にありながら、人民の生活の悲惨さを詠んだ歌を朝廷の高官に提出することによって、その惨状を訴えようともしている。

もはや先のない人生ではあったろうが、燃え尽きるようにしてこのような行動に及んだ山上憶良とは、日本の歴史の中でも、希に見るスケールの人物だったといえよう。






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