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山上憶良:日本挽歌と大伴旅人との交友


山上憶良が筑前国守として赴任して一年余り後、大伴旅人が大宰府の師(長官)として着任してきた。憶良にとっては上官の立場である。旅人は憶良よりは数年若かったが、高い家門の出であり、また教養も深いものがあった。その旅人と憶良とは、やがて心から敬愛しあう関係になる。

旅人も憶良も、その創作活動は筑紫時代に集中しており、万葉集中にあって独自の歌風を築いた。それは彼らが互いに影響しあったことの賜物だったともいえるのである。

大伴旅人が大宰府に着任してまもなく、旅人の老妻が死んだ。旅人は大宰府での勤めが人生の最後になるかも知れぬと考え、長年連れ添ってきた老妻をわざわざ伴ったのである。それゆえ、彼女を失った旅人の憂いは深いものがあった。

憶良は旅人の悲しみを忖度して、一首の挽歌を贈った。万葉集巻五にある日本挽歌である。この挽歌を通じて、二人の関係がいっそう深まり、またこれを契機に二人の作歌活動が燃え盛ることともなる。万葉の歌の世界にとっては、ある意味で記念となる歌である。

―日本挽歌一首、また短歌
  大王(おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に
  泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず
  年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に
  打ち靡き 臥(こ)やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに
  岩木をも 問ひ放(さ)け知らず 家ならば 形はあらむを
  恨めしき 妹の命の 吾をばも いかにせよとか
  にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離(ざか)りいます(794)
反歌
  家に行きて如何にか吾がせむ枕付く妻屋寂しく思ほゆべしも(795)
  愛(は)しきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心のすべもすべ無さ(796)
  悔しかもかく知らませば青丹よし国内(くぬち)ことごと見せましものを(797)
  妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干(ひ)なくに(798)
  大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る(799)
神亀五年七月の二十一日、筑前国の守山上憶良上る。

「大王の遠の朝廷」とは大宰府を指す。そこに、「泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず」夫に随って来たあなたは、息を引き取ってしまったと歌う。「恨めしき 妹の命の 吾をばも いかにせよとか にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離りいます」とは夫の旅人に代わって嘆きを歌ったものだろう。

後に「貧窮問答の歌」において、まずしい人の立場に己を置いて歌った億良には、他者の嘆きに共感できる繊細な感情が備わっていたのである。

短歌もそれぞれに、旅人の悲しみをよく理解しえている。(797)の歌は、筑紫へ来てまもなく死んでしまった妻を痛む旅人の心をよく分かちえている歌である。

この挽歌には、漢文調の序が付されている。

―盖し聞く、四生の起滅は、夢に方りて皆空なり。三界の漂流は、環の息まざるに喩ふ。所以に維摩大士は方丈に在りて、疾に染む患を懐くこと有り。釋迦能仁は双林に坐し、泥?の苦を免るること無しと。故に知る、二聖至極すら、力負の尋ぎて至るを払ふこと能はず。三千世界、誰か能く黒闇の捜り来たるを逃れむ。二鼠競ひ走りて、目を度る鳥旦に飛び、四蛇争ひ侵して、隙を過ぐる駒夕に走る。嗟乎痛きかな。紅顏三従と共に長逝し、素質四徳と与に永滅す。何そ図らむ、偕老要期に違ひ、独飛半路に生ぜむとは。蘭室の屏風徒らに張り、断腸の哀しみ弥よ痛し。枕頭の明鏡空しく懸かり、染ヰン*の涙逾よ落つ。泉門一掩すれば、再見に由無し。嗚呼哀しきかな。

憶良は旅人の悲しみを思いやりながら、教養の深い旅人にむかって、仏教的な無常観を語りつつも、「嗟乎痛きかな、嗚呼哀しきかな」と続けたのであろう。

旅人本人は、老妻の死を悼んで次のように歌っていた。

―世の中は空しきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり

これ以後、二人は互いに切磋琢磨するかのように、旺盛な作家活動を見せるのであるが、それもつかの間、ほぼ二年後の天平二年(730)、旅人は大納言となって都へと帰ることとなった。その時に、億良が旅人を送って作った歌が、万葉集巻六に載せられている。

―書殿に餞酒せる日の倭歌四首
  天(あま)飛ぶや鳥にもがもや都まで送り申して飛び帰るもの(876)
  人皆のうらぶれ居るに立田山御馬(みま)近づかば忘らしなむか(877)
  言ひつつも後こそ知らめ暫しくも寂しけめやも君いまさずして(878)
―敢へて私懐(おもひ)を布ぶる歌三首
  天ざかる夷に五年住まひつつ都の風俗(てぶり)忘らえにけり(880)
  かくのみや息づき居らむあら玉の来経(きへ)ゆく年の限り知らずて(881)
  吾が主の御霊賜ひて春さらば奈良の都に召上げ賜はね(882)
天平二年十二月の六日、筑前国司山上憶良、謹みて上る。

これらの短歌は、特にすぐれたものとも思われぬが、二人の交友の親密さが伝わってくる歌である。(882)の歌では、あなたが都へ戻ったら、王の許しを賜って、是非私も呼び戻してほしいと、ちゃっかりなところも垣間見せている。

この時、憶良はすでに七十歳、老いてなお立身を願っているところが、いかにも憶良らしい。






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