万葉集を読む

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卯の花を詠む:万葉集を読む


卯の花は初夏に咲くことから、やはり初夏に咲く藤とともに季節を強く感じさせる。万葉集には、卯の花を詠んだ歌が二十四首あるが、その多くはほととぎすと一緒に歌われていて、この二つは万葉人の心の中で分かち難く結びついていたことが察せられる。卯の花もほととぎすも初夏を告げるものであるから、その二つを結びつけて歌うことで、季節感を最大限に演出する効果が高まるわけである。そんな初夏の季節感を詠んだ一首。
  霍公鳥来鳴き響もす卯の花の伴にや来しと問はましものを(1472)
ほととぎすがやってきて鳴き騒いでいるが、その声を聞くと、卯の花と一緒にやってきたのか、と聞いてみたくなる、という趣旨。初夏には卯の花とほととぎすが一緒にやって来るという想念があるからこそ、こういう歌が生まれるのであろう。

卯の花とほととぎすを結び合わせた歌をもう一つ。
  皆人の待ちし卯の花散りぬとも鳴く霍公鳥我れ忘れめや(1482)
皆が待ち望んでいた卯の花が散ってしまっても、なお鳴き続けるほととぎすの声を、わたしは忘れられようか、いや忘れられない、という趣旨。どちらかといえば、卯の花よりほととぎすのほうに比重が掛っている歌いぶりだ。この歌は、永福門院の「ほととぎす空に声して卯の花の垣根も白く月ぞ出でぬる」を介して、佐々木信綱の有名な小学唱歌「卯の花の匂う垣根に時鳥早も来鳴きて忍音もらす夏は来ぬ」に影響を与えた、と大岡信が書いていた(「私の万葉集」三)。

次は、卯の花と結びついたほととぎすの声に、男女のさわやかな愛のやりとりをからませた歌二首。
  霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女(1942)
  卯の花の咲き散る岡ゆ霍公鳥鳴きてさ渡る君は聞きつや(1976)
一首目は、卯の花の咲き散る丘で葛をとっている乙女に向かって、ほととぎすの声を聞いたかと男が呼びかけたもの。二首目は、卯の花の咲き散る岡から時鳥が渡ってきたが、その声を聞いたかと男が呼びかけたもの。これに対する女の返歌は、「聞きつやと君が問はせる霍公鳥しぬぬに沾れて此ゆ鳴きわたる」(1977)というもの。以上どちらの歌も、卯の花とほととぎすとが、男女の仲を取り持つものとして想念されている。卯の花が何故、男女の愛をとりもつと万葉人が考えたのか、そこは興味をそそるテーマになるだろう。

次は、上の疑問に答えるような手がかりを与えてくれる歌かもしれない。
  佐伯山卯の花持ちし愛しきが手をし取りてば花は散るとも(1259)
佐伯山で卯の花を持っている人の手を握ることができれば、花が散ってもかまわない、という趣旨。この歌からするとどうも、女が卯の花を男の前で持つというのが、わたしの手を握ってみなさいな、という合図のようにも受け取れる。万葉人は、愛のやりとりにも、いきな計らいを盛り込んでいたと見える。

次は、片恋の苦しさを卯の花に寄せて詠ったもの。
  卯の花の咲くとはなしにある人に恋ひやわたらむ片思にして(1989)
卯の花の咲いているようにおおらかに私を迎えてくれたらよいのだが、あなたはそうではない、そんなあなたをわたしはいつまでも片思いするのだろうか、という趣旨で、切ない男心を詠んだものだろう。

卯の花は、万葉の時代から垣根に使われていたようだ。その卯の花の垣根を踏み越えながら、女のもとにかよう男心を詠んだ歌。
  春されば卯の花ぐたし我が越えし妹が垣間は荒れにけるかも(1899)
春がくると、卯の花をいためながら越えていったあなたの家の垣根は、いまではなんと荒れてしまったことか、と言う趣旨。女の家の垣根が荒れたのは、そこの女が居なくなった、つまり死んだということを意味しているようである。

卯の花をいためるのは男ばかりではない。夏の長雨も卯の花をいためる。そんな風情にことよせて、恋心を詠った歌。
  卯の花を腐す長雨の始水に寄る木屑なす寄らむ子もがも(4217)
卯の花を腐らす長雨の走水(早く流れる水)に寄ってくる木屑のように、多くの女たちに寄られたいものだ、という趣旨。これは女にもてない男の切ない気持を詠ったものだろう。





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