万葉集を読む

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虫を詠む:万葉集を読む


日本人ほど虫の鳴き声に敏感な民族はいないだろうと言われている。微妙な声を聞き分けて、その鳴き声の主である虫の種類も細かく分類し、それぞれ相応しい名を与えている。松虫、鈴虫、鍬形虫といった具合に。ところが万葉の時代には、虫は一喝して「こほろぎ」と呼ばれた。いまでも「こおろぎ」という名の虫はいるが、それに限らず、キリギリスも松虫も鈴虫もみな一様にこほろぎと呼ばれた。ということは、万葉の時代の日本人は、現代人ほど虫の声に敏感ではなかったということか。実際に万葉集には、秋の虫を詠った歌が十首にも満たない数があるばかりなので、あるいはそうかもしれない。

まず、巻八から、湯原王のこほろぎの歌。
  夕月夜心もしぬに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも(1552)
月の明るい夕べに、白露の置いたこの庭でこおろぎが鳴いている、それを聞くと我が心もしんみりとする、という趣旨。「心もしぬに」は、直後の白露ではなく、こほろぎにかかるのだろう。そのこほろぎの鳴く声を聞いて、心がしんみりとするのであるから、これは鈴虫のようなかそけき声を上げる虫なのだろう。

次に巻十から。
  秋風の寒く吹くなへ我が宿の浅茅が本にこほろぎ鳴くも(2158)
秋風が吹くにつれて、我が家の浅茅の根元でこおろぎが鳴く、というだけの趣旨だが、そのわりに味わいの深さを感じさせる。言外に、こおろぎの鳴く声を聞いて、心のしんみりする風情が感じられるからだろう。歌の趣旨としては、湯原王の上の歌と似ているが、こちらのほうは、詠み人知らずともあって、素直でストレートなところがよい。

次も庭で鳴いているこおろぎの声に耳を傾ける歌。
  庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり(2160)
庭の草に村雨が降ったあと、こおろぎの鳴く声が聞こえたが、そこにすっかり秋の深まりを感じた、という趣旨。村雨と言い、秋づくと言い、秋の季節感が皮膚感覚を通じて伝わってくるようである。

次は、秋の夜長に一人寝のわびしさを詠った歌。
  こほろぎの待ち喜ぶる秋の夜を寝る験なし枕と我れは(2264)
こおろぎが待ち望んでいた秋の夜だというのに、わたしには寝るかいがありません、枕と一緒では、という趣旨。歌の雰囲気からして、女の歌かもしれない。万葉時代の女は、ただひたすら男が訪ねてくるのを待ちわびる存在だった。男が来てくれないと、枕と一緒に寝るハメになったわけである。

蝉は、現代人の感覚では、夏の盛りに泣く虫という感じが強いが、万葉人にとっては秋と結びついていたようだ。蝉の中でも、ミンミンゼミのようなやかましい蝉ではなく、ヒグラシのようなしっとりとした声の蝉を好んだためだろう。ヒグラシはいまでも秋になってから鳴く。そんなヒグラシを詠った歌をまず。
  ひぐらしは時と鳴けども片恋にたわや女我れは時わかず泣く(1982)
ひぐらしは時節がきたといって鳴いていますが、片恋をしているたわやめの私は、時を選ばす泣いているのです、という趣旨。歌の雰囲気からして、女の歌であることは間違いない。誰からも相手にされない女の嘆きを詠ったものだ。

次は、遣新羅使の一行が安芸の国の長門の港に停泊していたときに、大石蓑麻呂が詠んだ歌。
  石走る瀧もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ(3617)
石を乗り越えて落ちる滝の音に負けずに鳴く蝉の声を聞くと、都のことが思いだされることよ、という趣旨。この蝉は、望郷の念を駆り立てていることから、おそらくしんみりとした声で鳴いていたのであろう。

蛙は厳密には虫ではないが、その鳴き声には虫に通じるものがある。とくにカジカガエルは、美しい声で鳴くことから、人々に愛された。万葉集には、蛙の声を詠った歌が二十首もあり、秋の虫であるこほろぎを詠ったものより多い。次はそのひとつ。
  草枕旅に物思ひ我が聞けば夕かたまけて鳴くかはづかも(2163)
旅の道で物思いをしていると、夕べが近づいたとばかり、蛙が鳴き始めた、という趣旨。「かたまけて」は「近づいて」という意味。





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