高橋虫麻呂には、筑波山の歌垣を詠んだ歌がある。「筑波嶺に登りて嬥謌會(かがひ)を為る日に作れる歌一首併せて短歌」がそれである。歌垣とは、筑波地方に古くから伝わる風習で、常陸の国風土記にも記されている。その歌垣を虫麻呂は、民間風俗を紹介するようなタッチで描いている。そこからして、歌としての面白さには欠けるという指摘もあるが、古代の風習を生き生きと描写していることには、貴重な意義があると言えよう。 鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 娘子壮士の 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 我も交らむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな 反歌 男神に 雲立ち上り しぐれ降り 濡れ通るとも 我れ帰らめや 鷲が住む筑波の山の、裳羽服津(もはきつ)の津の上で、声をかけあって集まってきた若い男女が、集いながら歌い踊る夜には、人妻に私も交わろう、私の妻ともだれか交われ、この山を治めている神様も昔から許していることだ、今日だけは女を哀れと思うな、男にも目くじらを立てるな。 反歌の趣旨は、男峰の上に雲が立ち上り、時雨がふってずぶぬれになっても、どうして帰ることがあろうか、いつまでもここに残って女と交わろう、という趣旨である。 長歌からも短歌からも、男女の乱交を肯定的に歌い上げ、性の喜びを謳歌するさまが伝わってくる。こうした乱交パーティが、古代日本の一部では、公然と行われていたわけであろう。筑波山に限らず、東国の広い範囲で行われていたらしいが、筑波の歌垣が、万葉集の歌や常陸国風土記の記述が作用して、歌垣の象徴的なものとして有名になった。 なお、筑波山の歌垣について触れた、常陸国風土記の一部を紹介しておきたい。 「夫れ筑波の岳は、高く雲に秀で、最頂は西の峰崢嶸しく、これを雄の神と謂ひて、登臨らしめず。但し東の峰は、四方磐石にして、昇り降りさがしく、其の側に流泉ありて、夏冬絶えず。坂より已東の諸国の男女、春の花の開ける時、秋の葉の黄づる節、相携ひつらなりて、飲食をもたらし、騎より歩より登臨りて、遊楽び栖遅(いこ)へり。其の唱に曰はく、 筑波嶺に 会はむと 云ひし子は 誰が言聞けばか み寝会はずけむ 筑波嶺に 廬りて 妻無しに 我が寝む夜ろは 早も明けぬかも 詠へる歌甚多くして、載車するに勝へず。俗の諺に云はく、筑波峰の会に娉の財を得ざれば、児女とせず、といへり」 ここでは、せっかく歌垣の場にやってきても、性交の相手が得られなかった女性は、一人前ではないと批判されている。とにかく、歌垣の場では、独身者も既婚者も、名分をわすれて乱交すべきだという、おおらかな雰囲気が伝わってくる。 歌垣についての民俗学的な解釈は、これが大古の乱婚の名残だとするものを含めて、いろいろとあるが、ここでは触れない。 |
万葉集を読む| 万葉集拾遺| 次へ |
作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである