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大伴旅人:亡妻をしのぶ歌(万葉集を読む)


大伴旅人は大宰府に赴任するに際して、老妻を伴った。すでに60を越していた老大官にとって、この旅は人生最後のものになるかもしれなかった。長年連れ添ってきた妻と、いたわりあいたい気持ちがあったのだろう。この妻に子はなかった。家持は庶腹の子である。旅人はこの旅に、家持をも伴っている。

その妻が、大宰府について間もなく亡くなった。旅人の受けた打撃は深刻だったようだ。その時に受けた弔問に応える歌が、万葉集巻五の冒頭に掲げられている。

―太宰帥大伴の卿の凶問に報へたまふ歌一首、また序
禍故重畳り、凶問累りに集まる。永に心を崩す悲しみを懐き、独り腸を断つ泣を流す。但両君の大助に依りて傾命纔に継ぐのみ。筆言を尽さず。古今歎く所なり。
  世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(793)

序文には、旅人の悲しみが率直に表現されている。両君とあるのが誰かはわからない。弔問者の中には山上億良もいて、日本挽歌を捧げているから、あるいは億良が含まれているのかもしれない。

短歌に盛られた悲しみの情は、飾り気がなく、真摯な気持ちが滲み出ている。それまで、人の死を歌うときには、月や水沫など移ろいやすいものに託して述べるのが流儀であった。そこを旅人は、「世の中は空しきものと知る時し」と世の無常を正面から歌い、「いよよますます悲しかりけり」と、悲しみをストレートに表現している。

こんなところにも、旅人の表現の新しさがある。

妻の死後、旅人は億良や満誓らとの交流を通じて、歌の世界を展開していく。妻の死に拘泥することもなくなった。ところが図らずも、数年を経て大納言に昇進し、都へ戻ることとなる。

都へ向かう途中、旅人はかつて亡き妻とともに眺めた景色に再び接した。すると、妻への恋情が改めて甦ってくるのを感じたのである。

―天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴の卿の京に向きて上道する時によみたまへる歌五首
  我妹子が見し鞆之浦の天木香樹(むろのき)は常世にあれど見し人ぞなき(446)
  鞆之浦の磯の杜松(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえめやも(447)
  磯の上(へ)に根延(は)ふ室の木見し人をいかなりと問はば語り告げむか(448)
ー右ノ三首ハ、鞆浦ヲ過ル日ニ作メル歌。
  妹と来し敏馬の崎を帰るさに独りし見れば涙ぐましも(449)
  行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも(450)
ー右ノ二首ハ、敏馬埼ヲ過ル日ニ作メル歌。

かつて二人で見た旅先の風景は今もそのまま変わらずにあるのに、あなただけはもういない。打ちひしがれた老いた男の感情が、現代の我々にもそのまま伝わってくるではないか。

なつかしい佐保の家に帰っても、旅人はかつてそこにいた妻が、もういないことの悲しさをかみしめる。

―故郷の家に還入(かへ)りて即ちよみたまへる歌三首
  人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり(451)
  妹として二人作りし吾(あ)が山斎(しま)は木高く繁くなりにけるかも(452)
  我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽(む)せつつ涙し流る(453)

あなたが植えた梅の木が、こんなにも育っています。それを見ると、私はあなたを思い出さずにはいられない、そしてあなたを思い出すたびに、心がむせて涙が流れるのです。

夫婦の情愛が、こんなにも肌理細やかに歌われたことは、日本の歌の歴史の中でも、そう多くはなかった。






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