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大伴家持:青春と恋(万葉集を読む)


大伴旅人が死んだ時、子の家持はまだ14歳に過ぎなかった。家持は妾腹の子ではあったが、聡明だったのであろう、旅人は家持が小さい頃から後継者と定め、大宰府にも伴って行って、自ら教育に当たった。旅人が死んだことで、家持は最大の後ろ盾を失うこととなったが、大伴家の当主として、それなりの自由を享受するようにもなった。

大伴家持は男女のことでも早熟であった。彼が最初に恋心を抱いたのは、坂上郎女の娘大嬢である。郎女は旅人の妹であり、その娘は家持にとっては従妹にあたる。

古代の日本においては、同族間での結婚は珍しいことではなかった。天智天皇は弟たる天武の娘を迎えているし、血のつながりの濃い者同士が結婚することは、今日のようにはタブー視されていなかったのだろう。まして、交差従兄妹同士の結婚は、世界中でも例が多い。

大伴家持は16歳の頃に、坂上大嬢にあてて恋の歌を贈っている。

―大伴宿禰家持が初月の歌一首
  振り放(さ)けて三日月見れば一目見し人の眉引(まよびき)思ほゆるかも(994)

色気の溢れた歌といえる。16歳の少年が書いたものとしては、非常に早熟だといわねばならない。

―大伴宿禰家持が春雉(きぎし)の歌一首
  春の野にあさる雉の妻恋に己(おの)があたりを人に知られつ(1446)

この歌は、母親の郎女との間で交わされた贈答の歌の一つである。家持は、郎女の支持のもとで、大嬢のもとへ通っていたのだろうか。だが、この恋はすぐに中断したらしい。家持が妾を迎えたからである。

その妾が家持のまだ22歳の時に死んだ。妾もまだ十代か二十歳になったばかりの若い女だったろう。その死を悲しんだ歌が、万葉集巻三に載せられている。家持は、人麻呂の妻の死を悼む歌を念頭に置きながら、これらの歌を作ったのであろう。

―十一年己卯夏六月、大伴宿禰家持が亡れる妾を悲傷みよめる歌一首
  今よりは秋風寒く吹きなむを如何でか独り長き夜を寝む(462)
―又家持が砌(みぎり)の上(へ)の瞿麦(なでしこ)の花を見てよめる歌一首
  秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑし屋戸の石竹(なでしこ)咲きにけるかも(464)
―月移(かは)りて後、秋風を悲嘆(かなし)みて家持がよめる歌一首
  うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒く偲ひつるかも(465)
―又家持がよめる歌一首、また短歌
  我が屋戸に 花ぞ咲きたる そを見れど 心もゆかず
  愛(は)しきやし 妹がありせば 御鴨(みかも)なす 二人並び居
  手折りても 見せましものを 
  うつせみの 借れる身なれば 露霜の 消(け)ぬるがごとく 
  足引の 山道をさして 入日なす 隠りにしかば 
  そこ思(も)ふに 胸こそ痛め 言ひもかね 名づけも知らに 
  跡も無き 世間(よのなか)なれば 為むすべもなし(466)
反歌
  時はしもいつもあらむを心痛くい去(ゆ)く我妹(わぎも)か若き子置きて(467)
  出で行かす道知らませば予め妹を留めむ塞(せき)も置かましを(468)
  妹が見し屋戸に花咲く時は経ぬ吾(あ)が泣く涙いまだ干なくに(469)

弱冠の若者の作であるから、人麻呂の荘重な歌に比較すべくもないが、男女の細やかな愛が滲み出ていて、なかなかの秀作である。妻の植えたナデシコの花が咲いたのをみて、亡き人への思い出が甦ると歌うところは、父旅人の歌風を連想させる。「うつせみの世は常なしと知るものを」と歌うところには、旅人も有していた無常観のようなものが漂っている。

「若き子置きて」とあるところから、妾は幼い子を残して死んだようである。その子の未来のことについては、よくはわからない。

家持は、悲しみがなかなか癒えず、続いて次の五首を詠んだ。

―悲緒(かなしみ)息(や)まずてまたよめる歌五首
  かくのみにありけるものを妹も吾(あれ)も千歳のごとく恃みたりけり(470)
  家離りいます我妹を留みかね山隠つれ心神(こころど)もなし(471)
  世間し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍(しぬ)ひかねつも(472)
  佐保山に棚引く霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし(473)
  昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子が奥津城と思(も)へば愛(は)しき佐保山(474)

最後の歌から、家持は妾の遺体を、自分の屋敷に近い佐保山に葬ったようである。

家持の妾への思いは、そう長くは続かなかった。妾の死後、家持は坂上大嬢との関係を修復しにかかったからである。大嬢は、恐らく家持の妾のことを気にしていたのだろう、そう簡単にはなびかなかった。家持は次のような歌を作って、なかなか実らぬ恋を託っている。

―大伴宿禰家持が歌一首
  かくばかり恋ひつつあらずば石木にも成らましものを物思はずして(722)

だが、坂上郎女の支持もあって、大嬢との恋はやがて実った。郎女は自分の娘を、大伴氏の跡継ぎの正妻に据えることを、強く願っていたらしい。

以下は、家持と大嬢との相聞の歌である。

―大伴宿禰家持が坂上の家の大嬢に贈れる歌二首 離リ絶エタルコト数年、復会ヒテ相聞往来ス。
  忘れ草吾(あ)が下紐に付けたれど醜(しこ)の醜草言にしありけり(727)
  人も無き国もあらぬか我妹子と携さひ行きて副(たぐ)ひて居らむ(728)

―大伴坂上大嬢が大伴宿禰家持に贈れる歌三首
  玉ならば手にも巻かむをうつせみの世の人なれば手に巻き難し(729)
  逢はむ夜はいつもあらむを何すとかその宵逢ひて言の繁きも(730)
  吾が名はも千名の五百名に立ちぬとも君が名立てば惜しみこそ泣け(731)

どうやら、これらの歌にみれらる二人の関係は、妻問の間柄だったようだ。

―また大伴宿禰家持が和ふる歌三首
  今しはし名の惜しけくも吾(あれ)はなし妹によりてば千たび立つとも(732)
  空蝉の世やも二(ふた)ゆく何すとか妹に逢はずて吾(あ)が独り寝む(733)
  吾(あ)が思ひかくてあらずば玉にもが真も妹が手に巻かれなむ(734)

―同じ坂上大嬢が家持に贈れる歌一首
  春日山霞たな引き心ぐく照れる月夜に独りかも寝む(735)

―また家持が坂上大嬢に和ふる歌一首
  月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占(あうら)をぞせし行かまくを欲り(736)

―同じ大嬢が家持に贈れる歌二首
  かにかくに人は言ふとも若狭道の後瀬(のちせ)の山の後も逢はむ君(737)
  世の中の苦しきものにありけらく恋に堪へずて死ぬべき思(も)へば(738)

―また家持が坂上大嬢に和ふる歌二首
  後瀬山後も逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日までも生けれ(739)
  言のみを後も逢はむとねもころに吾(あれ)を頼めて逢はぬ妹かも(740)

―また大伴宿禰家持が坂上大嬢に贈れる歌十五首
  夢の逢ひは苦しかりけり覚(おどろ)きて掻き探れども手にも触れねば(741)
  一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべく吾(あ)が身はなりぬ(742)
  吾が恋は千引(ちびき)の石を七ばかり首に懸けむも神のまにまに(743)
  夕さらば屋戸開け設(ま)けて吾待たむ夢に相見に来むといふ人を(744)
  朝宵に見む時さへや我妹子が見とも見ぬごとなほ恋しけむ(745)
  生ける世に吾(あ)はいまだ見ず言絶えてかくおもしろく縫へる袋は(746)
  我妹子が形見の衣下に着て直に逢ふまでは吾(あれ)脱かめやも(747)
  恋ひ死なむそこも同じぞ何せむに人目人言辞痛(こちた)み吾がせむ(748)
  夢にだに見えばこそあれかくばかり見えずてあるは恋ひて死ねとか(749)
  思ひ絶え侘びにしものを中々に如何で苦しく相見そめけむ(750)
  相見ては幾日も経ぬを幾許(ここだ)くも狂ひに狂ひ思ほゆるかも(751)
  かくばかり面影にのみ思ほえば如何にかもせむ人目繁くて(752)
  相見てば暫(しま)しく恋はなぎむかと思へどいよよ恋ひ増さりけり(753)
  夜のほどろ吾(あ)が出(で)て来れば我妹子が思へりしくし面影に見ゆ(754)
  夜のほどろ出でつつ来らく度多(たびまね)くなれば吾が胸断ち焼くごとし(755)

これらの歌は、若き家持の青春の歌となった。家持の恋の歌は、他の女との関係でも歌われたことはあったが、これほど大量に、しかも恋の喜びの溢れた歌は、生涯の伴侶坂上大嬢に宛てられたものだったのである。

万葉集巻八には、高円の野に遊びつつ、妻を恋ふる歌が載せられている。

―大伴宿禰家持が坂上大嬢に贈れる歌一首、また短歌
  ねもころに 物を思へば 言はむすべ 為むすべもなし
  妹と吾が 手携さはりて 
  朝(あした)には 庭に出で立ち 夕へには 床うち払ひ 
  白妙の 袖さし交(か)へて さ寝し夜や 常にありける 
  あしひきの 山鳥こそは 峰(を)向かひに 妻問すといへ 
  うつせみの 人なる我や 何すとか 一日一夜(ひとひひとよ)も 
  離(さか)り居て 嘆き恋ふらむ
  ここ思へば 胸こそ痛き そこ故に 心なぐやと
  高圓の 山にも野にも うち行きて 遊び歩けど
  花のみし にほひてあれば 見るごとに まして偲はゆ
  いかにして 忘れむものぞ 恋ちふものを(1629)
反歌
  高圓の野辺の容花(かほばな)面影に見えつつ妹は忘れかねつも(1630)

二人の結婚生活は相変わらず通い婚だったのだろう。常に一緒にいることのできないもどかしさが、歌には現れている。「山鳥こそは 峰向かひに 妻問すといへ うつせみの 人なる我や 何すとか 一日一夜も 離り居て 嘆き恋ふらむ」という部分に、家持のもどかしさがよく感じられるではないか。

反歌にもまた、野辺の花に妻の面影を見る青年の気持ちがよく現れている。

しかし、家持は浮気をしないわけでもなかった。深くのめりこむことこそなかったが、数多くの女性と相聞関係を結んだらしい。それに対する大嬢の嫉妬を感じさせる歌も残っている。

家持の浮気の相手には、笠郎女や紀郎女のような才女もいた。笠郎女のことは、別稿をたてて述べることにして、ここでは紀郎女との関係について述べよう。

万葉集巻四に、家持と紀郎女との間に交わされた相聞の歌が載せられている。

―大伴宿禰家持が紀女郎に贈れる歌一首
  鶉鳴く古りにし里ゆ思へども何そも妹に逢ふよしも無き(775)
―紀女郎が家持に報贈ふる歌一首
  言出(ことで)しは誰が言なるか小山田の苗代水の中淀にして(776)
―大伴宿禰家持がまた紀女郎に贈れる歌五首
  我妹子が屋戸の籬(まがき)を見に行かばけだし門より帰しなむかも(777)
  うつたへに籬の姿見まく欲り行かむと言へや君を見にこそ(778)
  板葺(いたふき)の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ち参り来む(779)
  黒木取り草も刈りつつ仕へめど勤(いそ)しき汝(わけ)と誉めむともあらじ(780)
  ぬば玉の昨夜(きそ)は帰しつ今宵さへ吾(あれ)を帰すな路の長手を(781)

紀郎女は紀鹿人の娘で名を小鹿といい、安貴王の妻であった。安貴王は女好きの浮気人だったらしく、家持はそこにつけこんで、郎女に接近したようである。だが、郎女はそんなに簡単に男になびくタイプの女ではなかった。家持の一連の歌には、尋ねていってもなかなか会ってくれない郎女への、懇願に似た気持ちが歌われている。それに対して、郎女はピシャっと言い返している。

家持は、こうした恋の駆け引きを歌にすることで、雅ともいうべきものを楽しんでいたのだろう。






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