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石川郎女:奔放な恋を生きた女(万葉集を読む) |
万葉の時代の女性たちが、現代人の我々が考えている以上に自由な生活を送っていたであろうことは、彼女らがかなり奔放な恋愛を楽しんでいたことからも察せられる。筆者は先に、坂上郎女や額田王のそのような恋を取り上げてきた。だが、奔放な恋を生きた女性としては、石川郎女を以て万葉の女性チャンピオンとせねばなるまい。 万葉の女性が恋に積極的でありえた背景には、当時の結婚が妻問婚であったという事情がかかわっている。その前提として、男に依存しない女の自立的な生き方が、社会の中で成立していたのであろう。 庶民のことはあまり明らかではないが、中流以上の人々にとっては、女は成人した後でも親の家に残り、そこを拠点に夫たる男を迎えて、結婚生活を営んだ。経済的に、夫に従属することがなかったのである。 かの坂上郎女は、度々結婚相手を変えながらも、自らは親の家たる佐保の屋敷に生涯住み、年をとってからは、家刀自として一家を取り仕切った。 恐らく、古い時代の母系社会的な構造が、この時代まで残っていたことの現われだといえる。 石川郎女は、天武天皇の皇子大津皇子との恋で知られる。万葉集巻二には、二人が交わした相聞の歌が載せられている。 ―大津皇子の、石川郎女に贈りたまへる御歌一首 足引の山のしづくに妹待つと吾(あ)が立ち濡れぬ山のしづくに(107) ―石川郎女が和へ奉れる歌一首 吾を待つと君が濡れけむ足引の山のしづくにならましものを(108) この歌からは、皇族といえどもやはり、女の家に通っていたさまが伺われる。皇子は、女に会いたいあまりに、山のしずくに濡れながら先を急いだのである。それに応えて、石川郎女は、一刻も早く会えるために、そのしずくになりたいものですと歌っている。 ところが、この相聞歌の次に、次の一首が載せられている。 ―日並皇子の尊の石川女郎に贈り賜へる御歌一首 女郎、字ヲ大名児ト曰フ 大名児を彼方(をちかた)野辺に苅る草の束のあひだも吾忘れめや(110) 日並皇子とは、天武天皇と持統女帝との間に生まれた草壁皇子である。石川郎女は、大津皇子と草壁皇子と、二人の皇子から愛されていたのだった。 研究者のいうところによれば、石川郎女はまず草壁皇子の思われ人になった。草壁皇子は若くして死ぬのであるが、その生前かあるいは死後に、大津皇子に愛され、その侍女として仕えたらしい。 だが、大津皇子は皇位継承を巡る争いの中で、持統天皇によって死を命じられる。享年二十台半ばのことであったらしい。石川郎女は若くして二人の思い人を失ったのである。 同じく万葉集巻二には、次のような歌群が載せられている。 ―久米禅師が石川郎女を娉(つまど)ふ時の歌五首 美薦苅る信濃の真弓吾が引かば貴人さびて否と言はむかも(96) 禅師 美薦苅る信濃の真弓引かずして弦著くる行事を知ると言はなくに(97) 郎女 梓弓引かばまにまに寄らめども後の心を知りかてぬかも(98) 郎女 梓弓弓弦(つらを)取り佩(は)け引く人は後の心を知る人ぞ引く(99) 禅師 東人の荷前の箱の荷の緒にも妹が心に乗りにけるかも(100) 禅師 久米禅師がどのような人物であったかはわからない。近江朝の時代のこととされているから、石川郎女はまだうら若い乙女であり、それに対して久米禅師はかなりな年であったろうと思われる。その老人が乙女に言い寄って、乙女がそれを受け入れる。老人は喜びのあまり、「妹が心に乗りにけるかも」とはしゃぐ。他愛ない恋のやり取りが目に浮かぶようであるが、郎女の恋愛遍歴の出発点は、以外にも年老いた男との交情なのであった。 若くして一人身となった郎女は、自ら積極的に男たちに近づいていったようである。万葉集巻二には、石川郎女が大伴田主に言い寄った歌が載せられている。 ―石川女郎が、大伴宿禰田主に贈れる歌一首 遊士(みやびを)と吾は聞けるを宿貸さず吾を帰せりおその風流士(126) 大伴田主ハ、字仲郎ト曰リ。容姿佳艶、風流秀絶。見ル人聞ク者、歎息カズトイフコト靡シ。時ニ石川女郎トイフモノアリ。自ラ雙栖ノ感ヒヲ成シ、恒ニ独守ノ難キヲ悲シム。意(ココロ)ハ書寄セムト欲ヘドモ、未ダ良キ信(タヨリ)ニ逢ハズ。爰ニ方便ヲ作シテ、賎シキ嫗ニ似セ、己レ堝子(ナベ)ヲ提ゲテ、寝(ネヤ)ノ側ニ到ル。哽音跼足、戸ヲ叩キ諮(トブラ)ヒテ曰ク、東ノ隣ノ貧シキ女(メ)、火ヲ取ラムト来タルト。是ニ仲郎、暗キ裏(ウチ)ニ冒隠ノ形ヲ識ラズ、慮外ニ拘接(マジハリ)ノ計ニ堪ヘズ。念ヒニ任セテ火ヲ取リ、跡ニ就キテ帰リ去ヌ。明ケテ後、女郎既ニ自ラ媒チセシコトノ愧ヅベキヲ恥ヂ、復タ心契(チギリ)ノ果タサザルヲ恨ム。因テ斯ノ歌ヲ作ミ、以テ贈リテ諺戯(タハブ)レリ。 ―大伴宿禰田主が報贈ふる歌一首 遊士に吾はありけり宿貸さず帰せし吾そ風流士にある(127) 大伴田主は大伴旅人の弟である。詞書にあるとおり容姿端麗の美男子であったらしい。日頃ひとり寝のわびしさを託っていた石川郎女は、田主の気を引こうとして手紙をやるが、なかなか返事を得られない。業を煮やした郎女は、卑しい女に変装して田主の屋敷に至り、誘惑しようとするのだが、田主はなおもなびかず、郎女はむなしく帰らざるを得なかった。 「遊士と吾は聞けるを宿貸さず吾を帰せりおその風流士」という郎女の歌には、風流な人とお聞きしていましたのに、こうして私を追い返すなんて最低ですねと、恨みとも諧謔ともいえぬものが込められている。それに対して、田主のほうは、俄かに応じられない事情があったのだろう、さらりとかわす返事を贈っている。 その田主があるとき、足にできもののようなものができた。その病を見舞って、郎女は次のような歌を贈っている。 ―石川女郎がまた大伴宿禰田主に贈れる歌一首 吾が聞きし耳によく似つ葦の末の足痛(あなや)む我が背自愛給ぶべし(128) 右、中郎ノ足ノ疾ニ依リ、此ノ歌ヲ贈リテ問訊ヘリ。 二人の恋がどうなったかについては、万葉集からは何もわからない。だが、郎女の多感な恋は続く。今度は、大伴宿禰宿奈麻呂に次のような歌を贈る。 ―大津皇子の宮の侍石川女郎が大伴宿禰宿奈麻呂に贈れる歌一首 古りにし嫗にしてやかくばかり恋に沈まむ手童(たわらは)のごと(129) 大伴宿禰宿奈麻呂とは、あの坂上郎女の夫となった人である。その人に、石川郎女は恋心を抱いた。「古りにし嫗」と自嘲するかのような表現を用いているところからすると、すでに若くはなかったのだろう。 石川郎女は、わたしはこんなに老いてしまった身なのに、なおもあなたに恋心を抱き、手童のように焦がれていますよと歌うのである。 |
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