万葉集を読む

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坂上郎女:恋多き女(万葉集を読む)


大伴坂上郎女は、額田王と並んで万葉の女流歌人を代表する人である。家持にとっては叔母にあたり、作家の上でも大きな影響を与えたと思われる。その作品は、家持の手によって筆写され、万葉集の中に多く残された。

坂上郎女は恋多き女であった。少なくとも生涯に3度の結婚をしたほか、数多くの男たちとの間で相聞の歌を残している。しかも、その恋心は老年にいたっても衰えることがなかった。

少女時代の坂上郎女については詳しくわかっていないが、最初の結婚相手は穂積親王であった。穂積親王は天武天皇の子で、奔放な人であったらしい。万葉集には但馬皇女との間の恋の歌が載せられている。坂上郎女と結婚したときにはすでに相当の年であったろう。この結婚生活は長くは続かなかったらしい。

坂上郎女の2度目の夫は藤原麻呂であった。不比等の四男で、権勢を極めた人物である。だが、郎女は正室ではなく、麻呂が折々郎女の家に通うという間柄であった。

坂上郎女と藤原麻呂との相聞の歌が、万葉集四に収められている。

―京職大夫藤原の大夫が大伴坂上郎女に賜れる歌三首
  娘子らが玉匣(たまくしげ)なる玉櫛の魂消むも妹に逢はずあれば(522)
  よく渡る人は年にもありちふをいつの程そも吾が恋ひにける(523)
  蒸衾(むしぶすま )柔(なこや)が下に臥せれども妹とし寝ねば肌し寒しも(524)
―大伴坂上郎女が和ふる歌四首
  佐保川の小石踏み渡りぬば玉の黒馬の来(く)夜(よ)は年にもあらぬか(525)
  千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし吾が恋ふらくは(526)
  来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを(527)
  千鳥鳴く佐保の川門(かはと)の瀬を広み打橋渡す汝(な)が来と思へば(528)
右郎女ハ、佐保大納言卿ノ女ナリ。初メ一品穂積皇子ニ嫁ギ、寵被ルコト儔無シ。皇子薨シシ後、藤原麻呂大夫郎女ヲ娉フ。郎女坂上ノ里ニ家ス。仍レ族氏(ウヂ)ヲ坂上郎女ト号フナリ。


詞書には、穂積親王が亡くなった後、佐保の里にある郎女の家に、麻呂が妻問したとある。そんな折に麻呂の歌に応えて郎女を歌を贈っているが、それらには、男を待ちわびる女心が率直に表出されている。

(527)の歌などは、来るといいつつなかなか来ない男を責めているものだ。坂上郎女は自分の感情をずばりという、芯の強い女性だったことが察せられる。

同じく巻四に、「大伴坂上郎女が怨恨の歌」が載せられている。男への恨みを書き綴った歌である。この歌の書かれた時期や、相手の男が誰であるのかについて、はっきりとしたことはわかっていないが、麻呂と別れた後に、麻呂にあてて書いたという説もあり、そう思いながら読むと、なかなか味わい深いものがある。

―大伴坂上郎女が怨恨の歌一首、また短歌
  押し照る 難波の菅の ねもころに 君が聞こして
  年深く 長くし言へば 真澄鏡 磨(と)ぎし心を
  縦(ゆる)してし その日の極み 波の共(むた) 靡く玉藻の
  かにかくに 心は持たず 大船の 頼める時に
  ちはやぶる 神や離(さ)けけむ うつせみの 人か障(さ)ふらむ
  通はしし 君も来まさず 玉づさの 使も見えず
  なりぬれば 甚(いた)もすべ無み ぬば玉の 夜はすがらに
  赤ら引く 日も暮るるまで 嘆けども 験(しるし)を無み
  思へども たつきを知らに 幼婦(たわやめ)と 言はくも著(しる)く
  小童(たわらは)の 哭のみ泣きつつ 徘徊(たもとほ)り 君が使を 
  待ちやかねてむ(619)
反歌
  初めより長く言ひつつ恃めずはかかる思ひに逢はましものか(620)

どんな事情があったのかはわからぬが、男との楽しき日々は長く続かず、郎女はひとり取り残されてしまった。「ちはやぶる 神や離けむ うつせみの 人か障ふらむ 通はしし 君も来まさず 玉づさの 使も見えず」というところには、心ならずも引き裂かれた愛に未練を残している風が感じられる。

短歌は、最初から長くは続かぬものと知っていたなら、その心積もりでいればよかった、あなたを恃んだあまりに、私の心はこんなにも苦しい、と歌う。捨てられた女の気持ちがこんなにも恋々と歌われたのは、郎女のこの歌が最初ではなかったろうか。

坂上郎女は、やがて同族の坂上宿奈麻呂の正室となり、二人の女子を産む。そのひとり坂上大嬢は家持の性質となるのである。

坂上宿奈麻呂は風流に乏しい男であったのだろうか、郎女は夫との間で相聞の歌を詠んだという記録がないようである。

坂上郎女は、宿奈麻呂と死別した後も、多くの男たちと愛を交わした。万葉集には、そんな郎女が折々に男たちとやりとりした恋の歌を多く掲げている。

―大伴坂上郎女が歌六首
  吾のみぞ君には恋ふる我が背子が恋ふとふことは言のなぐさぞ(656)
  思はじと言ひてしものを唐棣(はねず)色の移ろひやすき我が心かも(657)
  思へども験もなしと知るものを如何でここだく吾が恋ひ渡る(658)
  予め人言繁しかくしあらばしゑや我が背子奥も如何にあらめ(659)
  汝をと吾を人そ離くなるいで吾君(わぎみ)人の中言聞きこすなゆめ(660)
  恋ひ恋ひて逢へる時だに愛(うるは)しき言尽してよ長しと思(も)はば(661)

上の六首は万葉集巻四に載っているものである。相手の男が誰であるのかはわからない。ひとりなのか、複数なのかもわからないが、大方の研究では、折々に様々の男と交わした相聞の歌ではないかとされている。

「人言繁し」とか、「人の中言」とかあるのを見ると、人目をはばかる恋もあったのであろう。

万葉集巻八にも、坂上郎女の相聞歌がちりばめられて載っている。

―大伴坂上郎女が柳の歌二首
  我が背子が見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも(1432)
  打ち上ぐる佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも(1433)
―大伴坂上郎女が歌一首
  風交り雪は降るとも実にならぬ吾宅(わぎへ)の梅を花に散らすな(1445)

これらは、風物に寄せて心を詠んだものである。柳や梅を介して、ともに過ごした愛の時間を回想しているようでもある。

―大伴坂上郎女が歌一首
 世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ(1447)
右ノ一首、天平四年三月一日、佐保ノ宅ニテ作(ヨ)メリ。

この歌には作歌の時期の記録がある。天平四年といえば、旅人が大宰府から京に戻った後のことであるから、郎女もすでに相当の年になっていたに違いない。

―大伴坂上郎女が歌一首
  暇(いとま)無み来まさぬ君に霍公鳥吾がかく恋ふと行きて告げこそ(1498)
―大伴坂上郎女が歌一首
  夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものを(1500)

これらもまた、霍公鳥や姫百合に寄せて、男に寄せる心を詠った恋の歌である。載せられている場所からして、郎女老年の頃の歌だともとれる。

かように、坂上郎女は、生涯を恋する女として生き抜いたのであった。






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