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笠金村:遣唐使に贈る歌(万葉集を読む)


笠金村に、遣唐使に贈った歌がある。天平五年(733)年の作である。隋が滅びて唐になって以来、中国への朝貢の使節は遣唐使と名を変え、舒明天皇の二年(630)を第一回目として、天平五年には第十回目の遣唐使が派遣された。船団は竜骨をもちいない粗末な箱船四隻からなり、難波津から出発して瀬戸内海を進み、博多の津から玄界灘へと消えていった。

粗末な船であるから、遣唐使はいつ難破するとも知らず、二度と帰り来ぬ人も多かった。

笠金村が誰のためにこの歌を贈ったかはわからない。宮廷歌人として、この国家的な大行事に際して、誰ともなく特定せずに、危険をおかして異国へと向かう人々をねぎらったのかもしれない。

この歌は、万葉集巻八相聞の部に載せられている。友を気遣う気持ちが、相聞の歌として、とらえさせたのであろう。

―天平五年癸酉春閏三月、笠朝臣金村が入唐使に贈れる歌一首、また短歌
  玉たすき 懸けぬ時なく 息の緒に 我が思ふ君は
  うつせみの 世の人なれば 大王の 命畏み
  夕されば 鶴が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より
  大船に 真楫(まかぢ)繁(しじ)貫き 白波の 高き荒海を
  島伝ひ い別れ行かば 留まれる 吾は幣(ぬさ)取り
  斎(いは)ひつつ 君をば待たむ 早帰りませ(1453)
反歌
  波の上よ見ゆる児島の雲隠りあな息づかし相別れなば(1454)
  玉きはる命に向ひ恋ひむよは君が御船の楫柄(かぢつか)にもが(1455)

「大船に 真楫繁貫き」とは、国家的な大事業を前にしての感慨から発したとはいえ、余りにも誇張した表現だった。事実は、波のまにまに揺れる、ちっぽけな箱舟だったのである。「君をば待たむ 早帰りませ」とは、危険を冒して海の彼方に向かう人々への、せめてもの心使いの言葉だっただろう。

この時の使節団は、出発した翌々年に復命した。その際には、四隻のうち一隻は二度と戻らず、もう一隻は難破して崑崙国に漂着している。

万葉集巻九には、この同じ使節団の派遣に際して、ある団員の母が書いたという送別の歌も載せられている。

こちらのほうは、息子の安否を気遣う母親の気持が素直に現れていて、感動的な作品である。

―天平五年癸酉遣唐使の船、難波よりいづる時、親母が子に贈れる歌一首、また短歌
  秋萩を 妻問ふ鹿こそ 独り子を 持たりと言へ
  鹿子(かこ)じもの 吾が独り子の 草枕 旅にし行けば
  竹玉を 繁に貫き垂り 斎瓮(いはひへ)に 木綿取り垂(し)でて
  斎(いは)ひつつ 吾が思ふ吾子(あご) ま幸くありこそ(1790)
反歌
  旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群(たづむら)(1791)

「吾が独り子」というからは、たった一人のかけがえのない子であったのだろう。その子が「草枕 旅にし行けば」と、旅立つ様にはふれているが、なぜかその旅が遣唐使としての船の旅だとは詠っていない。母にとっては、陸にせよ、海にせよ、息子の遠く旅たち行く先の安全こそが大事であったのだろう。「吾が思ふ吾子ま幸くありこそ」の言葉には、そんな母親の純粋な気持ちが現れている。

また、反歌にある「吾が子羽ぐくめ天の鶴群」という言葉にも、海上高く飛ぶ鶴の群れに、我が子の安全を託す母親の気持ちが、痛いように伺われる。

ところで、この母の一人子が、二年後に無事戻ってきたのかどうか、万葉集は無論、何も教えてはくれない。






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