悲劇の皇子たち:有間皇子と大津皇子 |
日本の古代王朝における皇位の継承には、近代に確立されたような直系長〔男〕子相続のような明確なルールがあったわけではなく、兄弟間の継承や時には女帝の誕生といったことが頻繁に起きた。 皇位の継承は常に緊張を伴ったのであり、そこには様々なドラマがあった。それらのドラマを今日の目で読むと、シェークスピアの王権劇にも匹敵するほどである。 万葉の時代を彩った王権劇の中で最大のものは、いうまでもなく壬申の乱であるが、それ以外にも皇位継承がからんだ血なまぐさい事件は数多く起きている。 なかでも有間皇子と大津皇子にからむ事件は、その悲劇的な背景から人々の同情を誘ってきた。二人とも、有能であるがゆえに警戒され、罠を仕掛けられて死んだ。しかして死に臨んで、無念の思いを歌に残した。それらの歌からは、悲劇の皇子としての彼らの姿が、彷彿として浮かび上がってくるのである。 有間皇子は孝徳天皇の皇子である。孝徳天皇は政治的な基盤が弱く、斉明(皇極)女帝や中大兄との関係では常に不本意な思いを強いられていた。皇子はそんな父帝の姿を眼にし、子どもながら悩んだに違いない。 孝徳天皇が死ぬと、有間皇子は政治的には孤立状態に陥った。成人した皇子は、権力関係の中で自分に与えられた地位を自覚し、身の危険を感じるようになったにちがいない。日本書紀には「性黠くして陽狂す」とある。性格がわからず、狂った真似をしたという意味だろう。おそらく自分の身を守るための演技だったと思われる。ハムレットのようではないか。 そんな有馬皇子を、斉明女帝と中大兄は煙たいと感じたのだろう。蘇我赤兄に狂言を仕組ませて皇子を罠にはめ、抹殺したのである。 斉明天皇らが紀の湯に出かけている間、赤兄は皇子をけしかけて謀反の企てを図る。皇子がその話に乗ったところを見届けると、赤兄は皇子を捕らえ、天皇に引き渡した。これが事件の概要とされるものだが、あくまでも天皇方の視点から書かれたものであり、どこまで真実を伝えているかは定かでない。 有間皇子が引き立てられて紀の湯に向かう途次詠んだという歌が万葉集に載せられている。 ―有間皇子の自傷(かなし)みまして松が枝を結びたまへる御歌二首 磐代の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む(141) 家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(142) 一首目は、松の枝に目印をつけ、もし命があったら帰りがけに見たいものだと歌ったもの。命のあるはずもないことは、皇子自身十分にわかっていたことなのに、何故このような歌を歌ったのか。あるいは息災のマジナイとして、そのような風習があったのでもあろうか。 二首目は、文字どおりに自然にせまってくる歌である。この旅は常の旅とは異なり、死出の旅であった。椎の葉に盛った飯は、あるいは涙で潤ったかもしれない。 万葉集は皇子の歌に続けて、後人の歌を二三添えている。いづれも一種目の歌に関連して、皇子の不運に同情したものである。すでに万葉の頃から、皇子の悲劇的な死が人々の心をとらえていた徴だろうと思われる。ここではそのうち、人麻呂歌集中のものをあげておく。 ―柿本朝臣人麿ノ歌集ニ云ク、大宝元年辛丑、紀伊国ニ幸セル時、結ビ松ヲ見テ作レル歌一首 後見むと君が結べる磐代の小松が末(うれ)をまた見けむかも(146) 大津皇子は、鵜野讃良皇后(持統天皇)によって死を賜った悲劇の人である。天武天皇の長子として生まれ、その母大田皇女は鵜野讃良皇后の姉であったこともあり、血統的には申し分なかったが、母を幼くして失い、政治的な後ろ盾は小さかった。それでも幼い頃から聡明さを発揮し、人柄も人に慕われるものを持っていたため、鵜野讃良皇后は大津皇子をわが子草壁のライバルとして煙たがっていた。 天武天皇が死するや、間髪を置かぬが如くに、皇后は皇子に謀反の罪を負わせ、ついに葬り去ったのである。 万葉集は、大津皇子の辞世の歌とされるものを載せている。 ―大津皇子の被死(つみな)はえたまへる時、磐余(いはれ)の池の陂にて流涕(かなし)みよみませる御歌一首 つぬさはふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(416) 右、藤原宮、朱鳥元年冬十月。 大津皇子は漢詩の教養も豊かであったとみえ、漢詩でも辞世の句を残している。(懐風藻所収) 金烏臨西舎 金烏 西舎に臨み 鼓声催短命 鼓声 短命を催す 泉路無賓主 泉路 賓主無し 此夕誰家向 この夕 誰が家にか向ふ 大津皇子には同母の姉がいた。大伯(大来)皇女という。大伯皇女は父天武によって伊勢神宮の斎宮とされた。弟とは姉弟仲がよかったらしく、彼女が弟の死を嘆いて歌った歌には骨肉の情愛が溢れている。 ここでは、万葉集に載せられた彼女の歌六首をすべて並べてみたい。 ―大津皇子の、伊勢の神宮に竊(しぬ)ひ下りて上来ります時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)のよみませる御歌二首 我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に吾(あ)が立ち濡れし(105) 二人ゆけど行き過ぎがたき秋山をいかでか君が独り越えなむ(106) この歌がいつ作られたのかは明らかではないが、「竊ひ下りて上来ります時」とあることから、大津はなりを潜めて訪れたのであろう。あるいは身に迫った危険を姉に打ち明けにいったのかもしれない。歌に流れている悲しみに似た情が、そんなことを感じさせるのである。 次の四首は、大津の死を悼んだものである。 ―大津皇子の薨(すぎま)しし後、大来皇女の伊勢の斎宮より上京(のぼ)りたまへる時、よみませる御歌二首 神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君も在(ま)さなくに(169) 見まく欲り吾(あ)がする君も在さなくに何しか来けむ馬疲るるに(164) ―大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りまつれる時、大来皇女の哀傷(かなし)みてよみませる御歌二首 うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を我が兄(せ)と吾(あ)が見む(165) 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在すと言はなくに(166) 弟の葬られた二上山を弟の形見と思って眺めましょうと歌う、深い悲しみとあきらめのような辛い感情が伝わってくる歌である。 |
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