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山上憶良:七夕の歌(万葉集を読む)


山上臣憶良には七夕を詠んだ歌があり、万葉集巻八にまとめて載せられている。人生の苦悩を歌い続けた憶良にしては、めずらしく風月や伝説を詠んだものであるが、いづれも自発的に作ったものではなく、官人たちの宴の席で、求めに応じて歌ったものと思われる。だが、そこにも億良らしい側面がのぞいている。

七夕は、いまでは日本の民間の年中行事として季節を彩るものとなっているが、もともとは中国に発した行事である。牽牛織女の伝説は、漢代の古詩にも見え、夏の風物詩として、中国の五節季のうちに数えられていた。それが日本に伝わったときには、牽牛織女の話が、日本古来の妻問婚のあり方に重なり、当時の日本人の心をとらえたのである。

まず、最初の二首をみてみよう。

―山上臣憶良が七夕の歌十二首
  天の川相向き立ちて吾(あ)が恋ひし君来ますなり紐解き設(ま)けな(1518)
右、養老八年七月七日、令ニ応ヘテ作メリ。
  久かたの天の川瀬に船浮けて今夜か君が我許(あがり)来まさむ(1519)
右、神亀元年七月七日ノ夜、左大臣ノ宅ニテ作メリ。

「吾が恋ひし君来ますなり紐解き設けな」とは、まさしく妻問婚にあって、夜な夜な夫の訪ねてくるのを待ちわびる、妻たちの姿を歌ったものである。二首目にも、そのような妻の気持ちが籠められている。

これらは、宴会の席上で披露したものと思われるが、座に連なった人びとは、歌を聞いて、自らの妻を思いやったことであろう。

次に、大宰府の師、大伴旅人の屋敷で催された宴会の席での歌がのっている。

  牽牛(ひこほし)は 織女(たなばたつめ)と 
  天地の 別れし時ゆ いなむしろ 川に向き立ち 
  思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに 
  青波に 望みは絶えぬ 白雲に 涙は尽きぬ 
  かくのみや 息づき居らむ かくのみや 恋ひつつあらむ 
  さ丹(に)塗りの 小舟(をぶね)もがも 玉巻きの 真櫂もがも 
  朝凪に い掻き渡り 夕潮に い榜ぎ渡り 
  久かたの 天の川原に 天飛ぶや 領巾(ひれ)片敷き 
  真玉手の 玉手さし交(か)へ あまたたび いも寝てしかも 
  秋にあらずとも(1520)
反歌
  風雲(かぜくも)は二つの岸に通へども吾(あ)が遠妻の言ぞ通はぬ(1521)
  礫(たぶて)にも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき(1522)
右、天平元年七月七日ノ夜、憶良、天ノ河ヲ仰ギ観テ作メリ。一ニ云ク、帥ノ家ノ作。
  秋風の吹きにし日よりいつしかと吾(あ)が待ち恋ひし君ぞ来ませる(1523)
  天の川いと川波は立たねども侍従(さもら)ひ難し近きこの瀬を(1524)
  袖振らば見も交(かは)しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば(1525)
  玉蜻(かぎろひ)のほのかに見えて別れなばもとなや恋ひむ逢ふ時までは(1526)
右、天平二年七月八日ノ夜、帥ノ家ニ集会フ。
  牽牛の妻迎へ船榜ぎ出(づ)らし天の川原に霧の立てるは(1527)
  霞立つ天の川原に君待つとい通ふ程(ほと)に裳の裾濡れぬ(1528)
  天の川浮津の波音(なみと)騒くなり吾が待つ君し舟出すらしも(1529)

長歌は、言葉の流れが朗々として心地よい。対句を重ねているところも、技巧を感じさせず、かえって歌に快いリズムをもたらしている。

歌の趣旨は、先の二首の短歌同様、牽牛織女の伝説に事寄せて、妻問婚にある当時の日本の男女を歌うものである。「久かたの 天の川原に 天飛ぶや 領巾片敷き 真玉手の 玉手さし交へ あまたたび いも寝てしかも 秋にあらずとも」の結句の部分は、互いにひきつけあう男女の相愛がにじみ出ているようだ。

短歌もそれぞれに優れている。(1523)以下の歌は、妻の側に立って、夫婦の愛を歌う。とくに、(1527)以下の三首は、夫の訪問を願う妻の気持ちを歌って遺漏がない。憶良がこのように、他者に感情移入して歌うのは、日本挽歌のときと同様の手法であり、こうした歌い方が性に合っていたのかもしれない






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