万葉集を読む

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春の鳥を詠む:万葉集を読む


日本は野鳥の豊かな国で、山に野に水辺に、季節ごとに様々な鳥の姿を見、その声を聞くことができる。特に渡り鳥は、それぞれに季節を感じさせるので、季節に敏感な日本人は、好んで渡り鳥を詠ってきた。そのことは万葉人も同じだ。というより季節に敏感な万葉人の感性を、我々現代に生きる人間も受け継いでいるということだろう。

春の鳥の代表といえば、鶯だ。万葉集にも五十首ばかり詠まれており、鳥の中ではホトトギスについで多く詠われている。次はその一つ。
  冬こもり春さり来ればあしひきの山にも野にも鴬鳴くも(1824)
冬がおわり春がやってくると、山にも野にも鶯が鳴きわたることよ、と言う趣旨。あしひきのまでの三句は、山にかかる枕詞。これだけ多くの言葉を駆使して、山や野に鳴きわたる鶯の単純なイメージを引き出している。明るい色のついたような感じの歌である。

次は、鶯と雪の組み合わせを詠ったもの。
  山の際に鴬鳴きてうち靡く春と思へど雪降りしきぬ(1837)
山際に鶯が鳴いている、だから春だと思えば、雪が盛んに降っているではないか、と逆説的な気持を盛り込んだ歌。鶯は春早く鳴き始めるので、雪の降る日もある。だから雪との組み合わせも珍しくはない。その点では早春に咲く梅と同じだ。梅もやはり雪と組み合わせて詠われることが多い。

次は、のどかな春の日に鳴く鶯を詠った歌。
  鴬の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折りかざさむ(3966)
これは大伴家持が大伴池主に贈った歌。春になったものの、病気のために行楽することもままならぬ、そういう状態でも鶯の声や梅の花に、春の訪れを感じ取ることはできる、といった気持を込めて詠ったものだ。趣旨は、鶯が春の花、それも梅の花のもとで鳴き散らしているようだが、今の自分はそれを楽しむ余裕がない。いつかあなたとともに、梅の枝を手折ってかざしたいものです、というもの。病身の家持をも元気付けるような、鶯の賑やかな鳴き声が伝わってくるようである。

次も同じく家持の歌。これはひばりを詠ったものだが、万葉集の中でももっとも愛されてきた歌の一つだ。
  うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(4292)
うららかに日が照った春の日に、ひばりが飛んでいるのを見ると心が悲しい、一人で思いにくれていると、と言う趣旨の歌で、瞑想の歌人といわれる家持の面目がよく出ている。

雁は春になると北に帰ってゆく渡り鳥だ。それと交代するように、ツバメがやってくる。この去り行く雁と来れる燕を対照させたのが次の歌だ。
  燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く(4144)
ツバメがやってくるときになると、雁は故郷が恋しくなって雲の間で鳴くのだ、という趣旨。雲隠りとは、北へ向かって飛び去る様子を、雲の間を見えつ隠れつする姿であらわしたものだ。

モズも春の鳥だが、万葉集には二首しか収められていない。次はその一つ。
  春さればもずの草ぐき見えずとも我れは見やらむ君があたりをば(1897)
春が来た、もずは草陰に隠れて見えないのだが、私にはあなたの居場所がわかるでしょうか、という趣旨。姿を見せないもずにことよせて、同じく姿を見せない相手に、はやく姿を見せてほしいと呼びかけているのだろう。

鶴は春の水鳥の代表。古来日本人に愛されてきた鳥だ。万葉集にも鶴を詠った歌が五十首近く収められている。次はその一つ。
  天雲に翼打ちつけて飛ぶ鶴のたづたづしかも君しまさねば(2490)
雲に翼を翻しながら鶴が飛んでいきます、その鶴のように私のこころは不安です、あなたがいらっしゃらないので、という趣旨。鶴の姿に不安を感じ、その不安を慰めてほしいと思い人に呼びかけているわけだが、こういう詠い方は非常にめずらしい。

鶴はむしろ次の歌のように、人の心を励ますほうが似合っているように思える。
  足柄の箱根飛び越え行く鶴の羨しき見れば大和し思ほゆ(1175)
足柄の箱根の山を越えて飛んでゆく鶴の羨ましい姿を見ると、しきりに故郷の大和が思われる、という趣旨で、これは故郷へ向かって飛んで行く鶴を見て、望郷の念にかられているところを詠ったものだ。





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