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秋草を詠む(一):万葉集を読む


春の七草が七草粥とあるとおり食べるものだとすれば、秋の七草は花を愛でるものであった。その秋の七草を詠った歌がある。万葉集巻八に収められた山上憶良の短歌と旋頭歌である。まず短歌。
  秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種の花(1537)
解説はいらないだろう。秋の野に咲いている花を数えたら七種類あったというのだが、無論それは言葉の綾で、秋に咲く花は他にも沢山あるはずだ。

次に旋頭歌。
  萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花(1538)
これも解説は無用。萩から始めて七草の名を順に読み上げているだけだ。それでも歌になるから面白い。萩の花については、すでに取り上げたので、ここでは尾花以下の六つの花についてみて見たい。

まず、尾花を詠った歌。
  秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも我は思ほゆるかも(1564)
秋が深まると尾花の上に露が降り、その降りた露が消えてゆくように、はかない気持でわたしはあなたをお慕いしているのです、という趣旨。これは、日置長枝娘女が大伴家持にあてて詠んだ歌。それに対して家持は、「我がやどの一群萩を思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも」と返している。折角ですが、あなたの思いに応えられず残念、ということか。

次は、尾花を押し分けて女に会いにいった男の歌。
  秋の野の尾花が末を押しなべて来しくもしるく逢へる君かも(1577)
秋の野の尾花の穂先を押し分けながらやってきたからこそ、あなたに会えました、と言って、自分の気持を相手にアピールしているのだろう。それに対する女の答えは収められていない。

秋の七草の筆頭は萩と言うが、尾花もそれに劣らずすばらしいと詠った歌。
  人皆は萩を秋と言ふよし我れは尾花が末を秋とは言はむ(2110)
人はみな、秋の花と言えば萩といいますが、わたしは尾花の穂先こそが秋の花と言いましょう、という趣旨。尾花は萩のようにあでやかではないが、頭をたれたようなその風情が、可憐さを感じさせる。その可憐さに心を動かされる人も当然いるわけである。

次も尾花の穂先を詠った歌。
  夕立の雨うち降れば春日野の尾花が末の白露思ほゆ(3819)
夕立の雨がうち降ると、春日野の尾花の末に露がたまるのを思い出します、という趣旨。そのことで何を言いたいのか、言葉からはストレートには伝わってこない。おそらく尾花にたまった白露になにかなつかしい思い出が込められているのであろう。歌手は小鯛王こと置始多久美、つまり女性である。

次は、尾花ではないが、尾花に風情の似た小竹を詠った歌。
  妹らがり我が通ひ道の小竹すすき我れし通はば靡け小竹原(1121)
あの子のもとへ通う道筋の小竹(しの)すすきよ、私がとおるのだから、なびいて道をあけておくれ、と呼びかけたもの。小竹の形がススキに似ているので、しのすすきと言ったのだろう。

ついで葛の花を詠った歌。葛は、つる性の植物で、房状の花穂に、赤い花が下から順に這い登って行く。
  をみなへし佐紀沢の辺の真葛原いつかも繰りて我が衣に着む(1346)
女郎花の咲く佐紀沢のあたりの葛の原よ、いつかこの葛で以て衣を作り着たいものだ、と言う趣旨。葛のつるは、藤のつる同様に、その繊維が衣の材料になった。無論粗末な衣しかできないが。

次は、葛の葉の色づく様子を詠ったもの。
  我が宿の葛葉日に異に色づきぬ来まさぬ君は何心ぞも(2295)
我が宿の葛の葉が日に日に色づいてきましたが、あなたが見えないのはどうしたわけでしょうか、という趣旨。葛が色づくには一定の長さの時間がかかるので、この歌は思い人が随分長く来ないことを嘆いているのだというふうに受け取れる。

次は葛によせて切ない片恋を詠んだ歌。
  大崎の荒礒の渡り延ふ葛のゆくへもなくや恋ひわたりなむ(3072)
大崎の荒磯に生えている葛のように、方向も定まらぬままに思い続けるのでしょうか、そうはさせないでください、という切ない思いを詠ったものだろう。





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