万葉集を読む

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もみじを詠む:万葉集を読む


我々現代人にとってもみじといえば、赤く色づく紅葉が思い浮かぶが、万葉時代の日本人は、黄色く色づく黄葉のほうを愛でた。万葉集にはもみじを詠った歌が百首以上収められているが、それらがもみじという言葉を使うときには、ほぼ例外なく黄葉と表記されている。万葉人が何故、ことさら黄葉を愛でたのか、その理由はよくわからない。万葉時代にも、かえでやはぜの木など、紅葉するものもあったはずだ。その赤い紅葉よりも黄色い黄葉をことさら愛でたについては、民俗学的な背景があるのかもしれない。

その黄葉を万葉人はどのように受け止めていたか。まず、穂積皇子の歌。
  今朝の朝け雁が音聞きつ春日山もみちにけらし我が心痛し(1513)
今朝、雁の鳴く声を聞いた、もう春日山は黄葉しただろうか、私の心はかなしい、というもので、どうやら悲恋の感情を詠っているようである。穂積皇子は、天武天皇を父とした異母の妹但馬皇女と愛し合うようになるが、結ばれぬままに、皇女が先に死んだという悲恋の主人公である。その皇子が詠ったこの歌は、雁と黄葉とに、悲恋の悲しい思いを寄せたのだと受け取れる。要するに皇子にとって黄葉は悲しい感情と結びついていたわけだ。なお、この歌の近くに但馬皇女の歌があるが、それは皇子の思いに応えるかのような風情を持っている。「言しげき里にすまずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを」(1515)

次も悲恋を詠った歌。
  黄葉の過ぎかてぬ子を人妻と見つつやあらむ恋しきものを(2297)
黄葉は「過ぎる」の枕詞、葉が速やかに散ることから「過ぎる」と結びついたのだろう。その「過ぎかてぬ」とは、見過ごせない、忘れられないというような意味、その忘れられないほど恋しい女を、人妻ゆえに、見るばかりで手を出せない切なさよ、と詠ったものだ。

上の二つの歌は、黄葉を悲しい感情に結びつけることで、陰気なイメージを喚起させるが、逆に黄葉の華やかなイメージを強調するものもある。たとえば次の歌。
  経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね(1512)
縦糸もなく横糸も定めずに乙女らが織る黄葉に霜よ降ってくれるな、という趣旨で、黄葉を織物の錦の色と重ねているわけであろう。歌手は大津皇子。この人も悲しい運命に見舞われた人だ。その人が、黄葉を明るいイメージで詠んでいることが不思議だ。

次は黄葉が錦の色に染まり行くところを詠った歌。
  雨隠り情いぶせみ出で見れば春日の山は色づきにけり(1568)
雨にたたられて憂鬱な気分になったので外へ出てみると、春日の山が見事な色に黄葉している、という趣旨。ここでは黄葉が憂鬱な気分を慰めてくれているわけであろう。

雨が降れば黄葉が散る、その散るさまを詠った歌を二首。
  あしひきの山の黄葉今夜もか浮かび行くらむ山川の瀬に(1587)
  大坂を我が越え来れば二上に黄葉流るしぐれ降りつつ(2185)
一首目は大伴家持の弟書持の歌。天平十年冬、橘宿禰奈良麻呂の屋敷で催された宴の席で披露された数人の客の歌の一つ。今日も黄葉が散って山川の瀬に流れているのだろうか、という趣旨。他の人の歌に比べると、情緒の豊かさを感じさせる。二首目は作者不詳の歌、河内から大坂を越えて大和の二上山にさしかかったところ、時雨に打たれて散った黄葉が川に流れてゆくよ、と詠ったもので、書持のに比べるとイメージが直接的である。

もみじといえば、高い木を思い浮かべるが、万葉人は浅茅や萩と言った草花の色づきにも、もみじの風情を感じたようだ。次の二首は、浅茅と萩のもみじを詠ったもの。
  我が門の浅茅色づく吉隠の浪柴の野の黄葉散るらし(2190)
  秋萩の下葉の黄葉花に継ぎ時過ぎゆかば後恋ひむかも(2209)
一首目は、我が家の浅茅が色づいたのを見て、波柴の野の木々が黄葉しただろうという思いを寄せたもの、二首目は萩の花が終わると時をつかさず下葉が色づいたと詠んだものだ。

中には例外的に紅葉を詠ったらしいものもある。次の歌だ。
  子持山若かへるでのもみつまで寝もと我は思ふ汝はあどか思ふ(3494)
かへるでは、かえでの葉のことだ。楓の葉が蛙の手のような形をしていることから、そう呼ばれた。そのかえでが「もみつ」というのであるから、これは紅葉のことを言っているわけである。





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