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水江の浦島子:万葉集を読む


高橋虫麻呂は、官人としての立場で難波方面へ出張したことがあり、その時の現地での体験を踏まえていくつかの歌を残している。それらにも前回触れた東国への出張の場合と同じく、土地の伝承を踏まえたものがある。「水江の浦の島子を詠む」はその代表的なものである。

これはいわゆる浦島太郎伝説を踏まえている。この伝説は、日本書紀の雄略紀に丹波の人のこととして出ており、また丹後国風土記にも出ているとおり、丹後地方に伝わる話だったと思う。それを虫麻呂は、難波の住吉に舞台設定を移し替えて詠んだ。

なお、題名にある浦島子をどう読むかが問題になる。筆者が参照している伊藤博の校註その他では、「浦の島子」となっているが、「浦島の子」とすべし、という意見もある。浦島伝説として広く流布していることを考慮した見解である。

  春の日の霞める時に 住吉の岸に出で居て 
  釣舟のとをらふ見れば いにしへのことぞ思ほゆる 
  水江の浦の島子が 鰹釣り鯛釣りほこり 
  七日まで家にも来ずて 海境(うなさか)を過ぎて漕ぎ行くに 
  海神の神の娘子に たまさかにい漕ぎ向ひ 
  相とぶらひ言成りしかば かき結び常世に至り 
  海神の神の宮の 内のへの妙なる殿に 
  たづさはりふたり入り居て 老いもせず死にもせずして 
  長き世にありけるものを 世間の愚か人の 
  我妹子に告りて語らく しましくは家に帰りて 
  父母に 事も告(かた)らひ 明日のごと我れは来なむと 
  今のごと逢はむとならば この櫛笥(くしげ)開くなゆめと 
  そこらくに堅めし言を 住吉に帰り来りて 
  家見れど家も見かねて 里見れど里も見かねて 
  あやしみとそこに思はく 家ゆ出でて三年(みとせ)の間に 
  垣もなく家失せめやと この箱を開きて見てば 
  もとのごと家はあらむと 玉櫛笥少し開くに 
  白雲の箱より出でて 常世辺にたなびきぬれば 
  立ち走り叫び袖振り こいまろび足ずりしつつ 
  たちまちに心消失(こころけう)せぬ 若くありし肌も皺みぬ 
  黒くありし髪も白けぬ ゆなゆなは息さへ絶えて 
  後つひに命死にける 水江の浦のの子が 
  家ところ見ゆ(1740)

春霞のたなびく日に住吉の岸に出て、釣り船が波にゆれるさまを見ていると昔のことが思い出される
水江の浦の島子がカツオやタイを釣りながら、七日の間家に帰らずに海の果てまで船をこいでゆくと、海上の娘に偶然出会った、そこで言葉をかわしあい話がまとまったので、契りを結んで常世に至り、海神のすばらしい宮殿に、ふたりそろって住み込み、不老不死のまま、長い時間を過ごした、だが島子は普通の愚かな人間だったので、妻に向かって言うには、しばらく家に帰って、父母に事情を話したら、明日にでもまた戻ってこよう、そう言ったところ妻がそれに答えて言った。
もとのように会おうと思いますなら、この櫛笥を決して開けてはなりません、そいいってかたく戒めたのに、住吉に帰ってくると、家を探しても見えず、里もまた見えない。怪しみながら思うには、家を出てから三年の間に、垣根も家もなくなったのだろう、だがこの箱を開いてみれば、もとどおり家が現れるかもしれない。そう思って玉手箱を少し開いたところ、白雲が箱から立ち上り、あたり一面にたなびいたので、立ちさりながら叫び声をあげ、まろびつ足ずりしつつ、たちまち気を失ってしまった、若々しかった肌も皺だらけになり、黒かった髪も白くなり、やがては息さえ絶えて、ついに死んでしまったのだった。その浦の島子の家のあたりが見える。

   反歌
  常世辺に住むべきものを剣大刀汝が心からおそやこの君(1741) 
反歌の趣旨は、いつまでも常世の国に住んでいられたのに、お前の心のせいでこうなってしまった、バカな男よ、というものだ。

原伝説では、浦島は助けた亀に連れられて海底の宮殿に行くということになっているが、その部分は省いてある。そのことで、物語ならぬ歌としての、緊張度を高めようとしたのだろう。だが、それでもなお、伝説の枠組みにとらわれるあまり、歌としてのユニークさは損なわれていると思われないでもない。反歌が教訓めいたものになっているので、余計そういう印象を与える。





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