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柿本人麻呂歌集の寄物陳思の歌:万葉集を読む


正述心緒の歌が、心の内をストレートに表白するのに対して、寄物陳思の歌は、事物にことよせて自分の思いを述べるものである。同じく事物を介しているとはいう点で比喩歌に似ているが、比喩歌が自分の思いの内容を事物にたとえるのに対して、こちらは、事物を手掛かりにして自分の思いを述べるという違いがある。もっともその境は、あまり厳密ではない。

日本人は昔から、自分の思いをストレートに述べるのを憚る傾向があった。時代が下るにつれて、その傾向は強まるのだが、万葉の時代にはまだ、自分の思いをストレートに表現する傾向が、男女ともに強かったといえる。万葉集巻十一、十二に収められた歌を読むと、そういう傾向を読み取ることができる。

しかしそういう中にも、自分の思いをストレートに述べるのではなく、事物を介して間接的に述べる傾向も強かったわけで、万葉集にはそういう歌も多く収められている。ここでは、柿本人麻呂歌集からとられた寄物陳思の歌を鑑賞してみたい。

  山科の木幡の山を馬はあれど徒歩より我が来し汝を思ひかねて(2425) 
山科の木幡の山を私は歩いてやってきた、馬は持っているが、お前を思う気持ちが強いあまり、こうして歩いてやってきたのだ、と言う趣旨。馬に乗ったほうが結果的には早いと思うのだが、そんなことを考える余裕もなく、とりあえず歩いてきたのだ、という切迫感のようなものが感じられる。よほど女を思う気持ちが強いのだろう。山科の木幡の山とは、今の宇治市北部の山。

  水の上に数書くごとき我が命妹に逢はむとうけひつるかも(2433) 
水の上に数を書くようにはかない私の命だが、その命をかけてあの子に逢いたいと誓ったのだ、と言う趣旨。水の上に数を書いてもすぐに消えてしまう。それが命のはかなさを連想させる。人間の命のはかなさを水の上に形を描くことにたとえる文章は、「涅槃経」のなかにあるそうだ。

  大船の香取の海にいかり下ろしいかなる人か物思はずあらむ(2436) 
大船が香取の海にいかりを下ろしているが、いったいいかなる人が物思いにふけらないことがあろうか、と言う趣旨。人間誰でも物思いにふけるものだという単純な事柄を言っているわけである。大船の香取の海にいかり下ろし、まではいかなるを導くための序詞である。なお、香取の海は、下総にもあったが、ここでは琵琶湖の浦を言っているようだ。

  ぬばたまの黒髪山の山菅に小雨降りしきしくしく思ほゆ(2456) 
ぬばたまの黒髪山の山菅に小雨がふりしきるように、しくしくとうらがなしく思われる、という趣旨。ぬばたまの黒髪山の山菅に小雨降りしき、まではしくしくを導くための序詞。降りしき、からしくしくを連想するわけである。山菅は、山に生えている菅とも、竜のひげのようなものともいう。

  我が背子に我が恋ひ居れば我が宿の草さへ思ひうらぶれにけり(2465) 
我が夫に私が恋焦がれていると、我が宿の草さえも恋焦がれて枯れてしまいました、という趣旨。夫を思い焦がれる女の歌だろう。茂吉は、我を三つも重ねているのは感心しないと評しているが、このことでかえって歌の流れにリズムが生じているという読み方もある。

  道の辺の深草百合の後もと言ふ妹が命を我れ知らめやも(2467) 
道野辺の草深百合ではないが、ゆりも(あとで)と言う女の寿命を、この私が知る由もない、という趣旨。ゆり、は後にという意味。それを導くための序詞として、道の辺の深草百合のが働いている。女から後でといわれた男が、いったいいつまで待てばよいのかと、ふてくされている歌である。

  山ぢさの白露重みうらぶれて心も深く我が恋やまず(2469) 
山ちさが白露の重みでしなるように、我が心も恋のためにしなってやまない、という趣旨。山ちさは、食用の野菜の一首。それを恋心と結びつけるために、うらぶれてを持ち出し、その序詞として山ぢさの白露重みを使っているわけである。

  橘の本に我を立て下枝取りならむや君と問ひし子らはも(2489) 
立花の木の下に私を立たせ、下枝をとって差し出し、果たしてこの枝に実がなるように私たちの恋が成就するでしょうかと聞いたあの子は、いまはどうしているだろうか、と言う趣旨。立花の実がなることに、恋が成就することを重ね合わせているわけである。

  夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しか汝れが主待ちかたき(2503) 
夜が来ると私の床から離れないつげの枕よ、いったいどうしてお前は主人を待ちかねているのですか、という趣旨。ツゲの枕は男のものなのだろう。それがいつも使われることなく、自分の傍らに横たわっている。その一人寝のわびしさを詠った歌だ。

  山川の水陰に生ふる山菅のやまずも妹は思ほゆるかも(2862) 
山川の水影に生えている山菅がいつまでもたえることなく水に揺らめいているように、私も絶えることなくあの子を思い続けるのだ、という趣旨。山川の水陰に生ふる山菅のまでは、やまずを導くための序詞。恋の気持を、水にゆらめく水草にたとえるところが新鮮だ。





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