>
万葉集を読む

HOME本館ブログ東京を描く水彩画あひるの絵本プロフィール掲示板サイトマップ



大伴家持:池主との交流と山柿の門


大伴家持が越中国守として赴任したとき、越中国衙の官人たちの中に大伴池主の姿があった。池主の出自については確かなことはわかっていないが、北山茂夫は大伴氏の同族、それも大伴田主の子ではないかと推論している。もしそうだとすれば、田主は旅人の弟であるから、池主は家持にとっては従兄弟にあたる。

家持と池主は、若い頃に橘諸兄の屋敷で催された宴で同席している記録がある。いづれにしても二人は旧知の間柄であった。家持は心強く思ったに違いない。これを機会に、二人の長い交流が始まる。

家持が越中に赴任した秋、家持は館で宴を開いた。その時の歌のやり取りが万葉集巻十七に載せられている。

―八月の七日の夜、守大伴宿禰家持が館に集ひて宴する歌
  秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折り来る女郎花かも(3943)
右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。
  女郎花咲きたる野辺を行き廻り君を思ひ出徘徊(たもとほ)り来ぬ(3944)
  秋の夜は暁寒し白布(しろたへ)の妹が衣袖(ころもて)着むよしもがも(3945)
  霍公鳥鳴きて過ぎにし岡傍(び)から秋風吹きぬよしもあらなくに(3946)
右の三首は、掾大伴宿禰池主がよめる。
  今朝の朝明(あさけ)秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも(3947)
  天ざかる夷に月経ぬしかれども結ひてし紐を解きも開けなくに(3948)
右の二首は、守大伴宿禰家持がよめる。
  天ざかる夷にある我をうたがたも紐解き放けず思ほすらめや(3949)
右の一首は、掾大伴宿禰池主。
  家にして結ひてし紐を解き放けず思ふ心を誰れか知らむも(3950)
右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。

宴には多くの官人たちが出席していたらしい。そのうちの一人(もしかしたら池主)が女郎花を土産に持ってきたのだろう。その女郎花を家持が歌に詠んで、歌会の口火を切った。

池主は、この花はあなたのためのものですよ応じ、「妹が衣袖着むよしもがも」と、妻を残して一人やってきた家持の無聊を慰める。

家持は妻を思い出して感極まったか、「天ざかる夷に月経ぬしかれども結ひてし紐を解きも開けなくに」と歌って、一人身の無聊を自ら慰めるのである。

家持は、天ざかる鄙にあって思いもよらず旧知と出会い、しかも歌のやり取りの中に慰めを見出すことができて、大いにうれしかったに違いない。これ以後、家持は池主との間で、手紙や歌の贈答を続けるようになった。

しかし越中の冬は寒さがひとしおだったのだろう。家持は年が明けるとともに病に伏した。自らの病を悲しむ歌も作っている。その病が癒える頃、家持は訪れんとする春の気配を手紙にしたためて、池主に贈った。池主もまた手紙を返し、家持を気遣った。

そんな手紙のやり取りの中に、注目すべきものがある。家持が自らの作歌について反省し、始めて山柿の門にふれたものである。

―三月の三日、守大伴宿禰家持が更に贈れる歌一首、また短歌
含弘の徳、恩を蓬体に垂れ、不貲の思、陋心に報へ慰めしむ。来眷を載荷し、喩ふる所に堪ふること無し。但稚き時、遊藝の庭に渉らず、横翰の藻、自ら彫虫に乏し。幼年山柿の門に逕らず、裁歌の趣、詞を叢林に失ふ。爰に藤を以て錦に続ぐといふ言を辱(かたじけな)くす。更に石を将て瓊に同じくする詠を題す。固(まこと)に俗愚懐癖、黙止すること能はず。仍(かれ)数行を捧げて、式て嗤咲に酬ふ。其の詞に曰く、

   大王(おほきみ)の 任(まけ)のまにまに ひなざかる 越を治めに
   出でて来し ますら我すら 世間(よのなか)の 常し無ければ
   打ち靡き 床に臥い伏し 痛けくの 日に異に増せば
   悲しけく ここに思ひ出 苛(いら)なけく そこに思ひ出
   嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを
   足引の 山来隔(へな)りて 玉ほこの 道の遠けば
   間使も 遣るよしも無み 思ほしき 言も通はず
   玉きはる 命惜しけど 為むすべの たどきを知らに
   隠(こも)り居て 思ひ嘆かひ 慰むる 心はなしに
   春花の 咲ける盛りに 思ふどち 手折り挿頭さず
   春の野の 茂み飛び漏(く)く 鴬の 声だに聞かず
   娘子らが 春菜摘ますと 紅の 赤裳の裾の
   春雨に にほひ湿(ひ)づちて 通ふらむ 時の盛りを
   いたづらに 過ぐし遣りつれ 偲はせる 君が心を
   うるはしみ この夜すがらに 眠も寝ずに 今日もしめらに 
恋ひつつそ居る(3969)
短歌
   足引の山桜花一目だに君とし見てば吾恋ひめやも(3970)
   山吹の茂み飛び漏く鴬の声を聞くらむ君は羨(とも)しも(3971)
   出で立たむ力を無みと隠り居て君に恋ふるに心神(こころど)もなし(3972)
三月の三日、大伴宿禰家持。

まず前段の文章の中で、家持は、「但稚き時、遊藝の庭に渉らず、横翰の藻、自ら彫虫に乏し。幼年山柿の門に逕らず、裁歌の趣、詞を叢林に失ふ」といっている。若い頃に詩歌の術に無頓着で、自己流に歌っていたため、自ずから文章の彩に乏しいものばかりだった。山柿の門を幼い頃から叩いていれば、もっとましな歌詠みになれていたかもしれない、そういう思いが込められた文章だろう。

ここでいわれている山柿の門という言葉については、さまざまな論証がなされてきた。今日では、山柿とは人麻呂、赤人を指していうのだろうとするのが、大方の受け取り方である。

では何故、人麻呂、赤人なのだろうか。この二人に共通するのは、宮廷歌人として、古代王朝時代のこの国の勢いというべきものを、厳かにしかもおおらかに歌ったことだ。彼らの歌には、神代につながるこの国の魂のようなものが響き渡っていた。家持は、独自な伴造意識を持った人物だったが、その意識が歌の理解の中にも影を落しているのではないか。

ともあれ、これは歌というものを客観的な相のもとに捕らえなおそうとした、きわめて批評的な態度だといえる。

長歌のほうは、春の訪れをのびのびと歌っていて、家持の屈託のない気分が表れている。

大伴池主は、間もなく隣の越前国に配転された。それでも二人は交流を暖め続け、手紙のやり取りを続ける。

―越前国の掾大伴宿禰池主が来贈(おく)れる歌三首
今月十四日を以ちて、深見の村に到来(いた)り、彼の北方を望拝す。常に芳徳を思ふこと、何れの日か能く休(や)まむ。兼(また)隣近に以(より)て、忽ちに恋緒を増す。加以(しかのみにあらず)、先の書に云はく、「暮春惜しむべし、膝を促(ちかづ)くることいつとかせむ」と。生別の悲しみ、それ復た何をか言はむ。紙に臨(むか)ひて悽断す。奏状不備。
一古人の云へらく
  月見れば同じ国なり山こそは君があたりを隔てたりけれ(4073)
一物に属(つ)きて思ひを発(の)ぶ
  桜花今そ盛りと人は言へど吾は寂(さぶ)しも君としあらねば(4074)
一所心歌
  相思はずあるらむ君をあやしくも嘆きわたるか人の問ふまで(4075)
三月の十五日、大伴宿禰池主。

これは、春の盛りに池主が家持に送った手紙と歌である。「暮春惜しむべし、膝を促(ちかづ)くることいつとかせむ」とは、家持からいった言葉である。これに対して、池主は、「月見れば同じ国なり」といいつつ、「吾は寂しも君としあらねば」と応える。

家持も書に歌を添えて池主に贈る。

―越中国の守大伴宿禰家持が報贈(こた)ふる歌四首
一古人の云に答ふ
  あしひきの山は無くもが月見れば同じき里を心隔てつ(4076)
一物に属きて思ひを発ぶに答へ、兼(また)遷し任(よ)さして旧りにし宅の西北)の隅の桜の樹を詠める
  我が背子が古き垣内(かきつ)の桜花いまだ含(ふふ)めり一目見に来ね(4077)
一所心に答ふ。即ち古人之跡(ふること)を今日の意に代へたり
  恋ふと言ふはえも名付けたり言ふすべのたづきも無きは吾が身なりけり(4078)
一また物に属きてよめる
  三島野に霞たなびきしかすがに昨日も今日も雪は降りつつ(4079)
三月の十六日、大伴宿禰家持。

家持は、池主の歌のそれぞれのテーマごとに、歌を返している。

「あしひきの山は無くもが」とは、山さえなければ隣の里にいるあなたを見ることができるだろうという思いである。人麻呂の歌に「なびけこの山」と歌ったものがあった。人麻呂は山がなびいて愛しい人の姿を見れるようにしたいと歌ったのだが、家持のこの歌もそれと同じような気持ちが込められている。恐らく人麻呂の歌を意識してのことに違いない。

最後の歌は、春も過ぎたにかかわらず、自分のいる三島野には雪が降りやまやいと、身辺の様子を歌っている。手紙らしい時候の挨拶だろう。三月半ばといえば、今の暦では初夏にあたる。家持の時代には、桜が散った後でも、雪の降ることは珍しくなかったのだろうか。






万葉集を読む大伴家持



HOME万葉の世紀王朝の周辺柿本人麻呂山部赤人山上億良
大伴旅人大伴家持女流歌人下級官人万葉の庶民






作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである